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No.182 【スコアブック】 練習課題を見付けるためのシート

 

 野球もバレーも球技にはそれぞれクローズアップしたい内容を記録するためのスコアブックがあります。正式な記録用紙とは異なりますが、おおむね似たようなものが販売されています。実は私はその件に関しては無頓着です。この素人感覚をあえて生かしてみようと数年前に作成したものを紹介しておきます。観点は次の3つです。1.それぞれの学年に応じて、本人たちが記入しやすい形式であること。2.点数のやり取りよりもいいプレー、残念なプレーの内容がわかること。3.各自やチームが課題を設定しやすい見え方にすること。

 この書式が最善ではありませんし、目的によって書式は工夫する必要は当然あると思います。このスコアブックから次のコラムに紹介する課題シートにつないでいくっていう・・・ま、そうそう簡単には回らないのも現状ですが・・・

No.183 【課題シート】 

 

 181のスコアブックやミーティング、バレーノートや最近の状況を気にしながら、各自が(多くはコーチがなのですが、本来は自分で、自分たちで作ることが一番いいと思います。PDCA。)

​ サンプルを添付してみました。6年生の子のシートです。主な課題、そのための練習メニュー、できるようにしたい期日。ずっとやり続けたらきっとすごいちからになると思います。やり続けたら。それを根性というのかな。

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No.184 【どうしても緊張しちゃう】 

 

 単発のドリル練習ではそこそこよいパフォーマンスを発揮するし、もっているポテンシャルも高い、でも大会や練習試合ではその力が発揮できなかったり空回りしてしまったり。そんな悩みの声はよく耳にします。たぶん、圧倒的な力の差を自身が持ち合わせていない限り、誰でもそうなんじゃないだろうか。と考えるのは楽観視しすぎでしょうか。
相手が強かったり戦績が素晴らしかったりすればなおのこと。結局のところ、自分のできることをやり通そう、対応策を信じて実行しようと揺ぎ無く自分を信じることがどれだけできるかにかかってくるのでしょう。それができないから悩みます。
 「色々がんばってちゃんと準備してきたからこそ緊張するんだ。適当だったら緊張しないもん。」「上手くいかないことは百も承知、その直後も全力で行こう!」と思えるか「また失敗したらみんなに迷惑かけちゃう。」とマイナス思考に思うかは大きな違いです。よく思い返してみると、頭の中でしゃべっています。人間が動きを発動する直前は必ず頭の中でしゃべっています。これは次の動きの誘発、発動の一歩手前の出来事です。となれば自分に言い聞かせることはやはり重要。セルフトーキング。ありきたりと思うかもしれませんが、これを成功せるには二つのベースが必要だと考えます。
 一つは地味で長い時間のかかる基本的な作業(練習)を一瞬一瞬セルフトークしながらやってきていること。もう一つは、その姿をみんなで見て、みんなを見て、全員がその努力を認め合ってきている確かな時間がたくさんあること。
 魔法のことば、願掛けもこのポジティブな思考とセルフトーク、そして二つのベースが意味を持たせてくれます。
 緊張しないなんて人はまずいません。口ではそう言っている人も、実はそれこそセルフトーク。まずは深呼吸を一つ大きくして気持ちと体を「0」にしよう。瞬時の瞑想。そして、たくさん失敗しに行きましょう!小学生バレーなんだから。

No.185 【伝統】 

 

「今週末、バレーしに行ってもいいですか?」と卒業生から。
「HIGASHIが育てた子達が都大会出場権を手に入れました。」と中学の顧問の先生からのご連絡。
子どもはエンジン全開で発射しても時々エンストする。随分前、卒業生へのはなむけに「HIGASHI JVCバス、その時は発車ターミナルのこの体育館へ」とつづったことを思い出した。このチームもソフトランディングから10年近くが経ち、成人を迎えた卒業生も。ここを原点の一つと強く肯定的に心にとどめてくれる人が想いを伝えてくれることはなんとありがたいことか。チームもこの子たちもちょっとずつ根をしっかりさせてこれたのかなと感じる時の一つ。地中の根の太さや広がりは樹を見ただけではわからない。見方を変えると、根を養えば樹はしっかりと育つ。その樹に魅力があれば、志や憧れをもつ人が集まり、そこへの径ができる。まずは小径か。桃李成蹊、故事成語はこんな意味をもつところからか。この営みを繰り返しそんな樹がたくさんになる過程を含めて、このチームの伝統が一つ拓けたかなと。もちろんまだまだ小径。

No.186 【反抗期】 

 

 読んだ後、「人はそれぞれ違う」「無理がある」「理想と現実は違う」と考えるか心にとめてみようと思うかは「人それぞれ」と逃げ道をまず用意して私見のスタートを切ります。
 「反抗期」があるかないかと言えば答えは「ある」。その期間があるかないかという意味で「ある」です。その時期子どもは内にも外にも未熟ながら自分の考えを加速的にもちはじめます。これが出せない環境になることは問題につながります。ただし、その状況と好戦的になったり、破壊行為や暴言暴力につなげることを「反抗期だから」「こういう時期が無ければいい大人になれない」というのとは違うと思います。海外では反抗期は無いことのほうが多いという人すらいます。日本は厳しさと謙遜の歴史のなかでしつけが道理の理解以前にただの威圧であったり、その場でガツンとであったり、ちがうのではないか?をきちんと言える環境でなかったりというのも原因の一つなのかなと思います。文化。
 主張が異なると血が上る、その場で説き伏せるにはパワーバランスを使う選択肢は容易ですし、危機管理を要する場面ではそれしかない場合もあります。ということは「そうではないんじゃなか」を伝える方法、他にも大人の選択肢はある。そうなった場面でその子がどういう手段で主張を通そうとするかの選択肢もその大人の選択肢から自然に学ぶことの繰り返しが礎になるとも考えられます。そう考えると、赤ちゃんの時期から「選択」と「失敗や成功」「称賛」「再試行」の機会がたくさんあることはチャンスなんだと思います。(お、PDCAだ。)
 その場で答えを出さず、後から別の人がそれとなく代弁、手紙やメモにして冷静になる時間をおいて渡す、謝ってから一緒に考える、別の人の出来事として近い例でそれとなく話題にする・・・。思いつく基本的な方法はそんなところでしょうか。もちろん、主張がぶつかる瞬間には緊張感のある対峙が続くでしょうが、そんな場面でこそ「考える」瞬間が必要なのではないかと思います。ぶつかり合う、対峙、瞬間、考える、おお、バレーのにおいがしてきました。きっと通じ合う、方向性に力をもった矢が放たれる、その練習期間が反抗期。チャンスはいい方向に生かしたいと思います。

No.187 【サーブ 緊張の1°】 

 

 後衛のプレーヤーでも(リベロを除いて)確実に勝負できる瞬間はサーブ。一進一退の競り合いやマッチポイントを取られてからのエンドラインに立った時の心理状態は、誰でも味わえるわけではない。寧ろそんな位置に自分が経っていることを千載一遇のチャンスと思える・・・の数秒後にイップス(yips)にもなりかねないその場面。結果オーライなのか、その順番が回ってきたことを不運に思うのか、本人次第とはいえ重圧のかかる時間がこのサーブ。
 精密機械でない人間の成すこと、手元が狂う、いつもとほんのほんのほんの少しのブレが生じることは精神的な影響、健康状態、体の状態から起因することは致し方ない。克服の仕方も人それぞれだが、このエンドラインに立つまでの膨大な準備を信じるしかない。スキージャンプの空中に飛翔している時間は約4秒。オリンピック選手はこの4秒のために4年間、否それまでの競技人生をかけてきた。
 エンドラインからネットまで、小学生は8m、サーブの発射角度1度のずれは約14cm。成人の9mコートであれば約16cm弱。会場をどよめかせるサーブで1点をとりに行くのであればこの1度を制しなければならない。
 計算上、2mの打点からのサーブで初速60km/h出せるプレーヤーの場合、打ち出しの角度は9度。これでネットすれすれを通過し、エンドラインボール1個分手前に落ちるサーブとなる。ちなみにこの時、コートに落ちるまでの時間は0.96秒。ネットを通過するまでに守備をととのえる時間はたったの0.5秒。攻める側も守る側も自分の意識との勝負。

No.188 【ドッジボールのススメ】 

 

 けん玉、縄跳び、Sケン、おにごっこ、以前にもちょいバレで話題にした私たちいい大人が昔は当たり前のように毎日、日が暮れるまでやっていた外での遊び。その代表格がドッジボール。最近特にこの必要性を強く感じます。念押しのように登場させるこのドッジボールは、学童クラブに所属している子は多少経験値がある。でも昔に比べたらあまりにも少ない。習い事として球技、ダンスのクラブ内で、調整力、ボディイメージ、手具との距離感、パワーラインを作るのには正直無理がある。小さいころからバレー一筋も悪くはない。触手を伸ばしてあちこち探検するうちに別のスポーツにのめりこむこともいいこと。その時に中が空洞のソメイヨシノでは、思いがけない朽ち果て方に後悔することも。
 最近の子は本当に忙しい。一番の原因は文部科学省にあるのだが、この環境設定は子ども自身の力では抜け出しようがない。解決策がないわけでもないのだが、きっと賛同は得られないだろうし、責任ももてないのでここでは言及しません。
 ではせめて、ドッジボールを「今日はもう嫌というほどやった」」経験を月に1回くらいはと願う。身体能力を向上させる基礎は小学校の低学年までがベース(取り戻せなどと可能性を否定するものではありません)説は頷けます。
 ソメイヨシノ→もともと接ぎ木によって、花が大きくたくさん咲く見栄えのいい樹木にするための技術を使って作られているため、巨木になると中が空洞化してしまう。寿命は他の品種に比べて1/5~1/10。

No.189 【(―)マイナス練習】 

 

 ブロックフォローのチャンス、失点を食い止められるチャンスは1セットに1回もないことも。ラリーが多くブロックが3枚4枚などというしかも、ネットから手が出た時点でオーバーネットの反則の9人制バレーでは5回も6回もなどというのはよくあることです。
 「全力で」「やることはちゃんとやる」「さぼらない」形骸化しがちな練習場面でのこのフレーズは、自分を正当化する、自己防衛に使われる常套句として「も」挙げられる言葉です。「も」とは?正当化や自己防衛に使うか、自分を向上させるために使うか、それは本人次第です。折角なら「も」をプラス(+)に使ったらいいんじゃないかなと思います。プラスしようと自分の背中を押す根拠は数個、意識や動きとしては非常に単純(個人の状況に合わせた細かい繊細な技術的なことはさておき)。
 「ファインプレーをしたい」「失わない1点を大事にしたい」「とにかくその場面での上手さを上げたい」が主な根拠でしょうか。私の場合は主に1、目立ちたいから。ブロックフォローの意識は、下から水面の水を一瞬にしてすくいあげるような感覚。そのチャンスを虎視眈々とねらう猛禽類か命を繋ぐ獲物を捕えんとする獣の類並みの強い意識・・・ちょっとオーバーかな?いやいや絶対に!を表現したいのなら意識と動きは徹底的にさぼらない方がいいと思います。
 それをしない、意図的ではないにしてもしていないというのであれば、それは「しない」「引き下げる」を積み重ねていることになります。上手くなろうとしない練習、意識を下げること、動きをつくらない練習の積み重ねです。なんとももったいないこと、多くの不協と残念な時間を生む、それこそ(―)マイナス練習。
 とはいえ、この状況については何千回も言葉にして体現して伝えます。なぜなら、この意識、この先の数限りない場面において人として大切な、事象への対応方法だからです。高学年、OGが、スポーツの指導場面でこのことについて後輩にそんな意識を伝えている場面をいつの日か見てみたいと思います。

No.190 【夢をもつ】 

 

 夢を語る前提として「夢」ってなんなんでしょうね。よく夢と希望のちがいについて語るくだりは目にします。そのちがいについて私はこう考えます、「どっちでもいい」。自分が望む将来像、遠くの到達点は言葉で表すことの適切さは、その中身と道の歩き方に比べたらどうでもいいことなんじゃないかな。
 人が成長していく過程で色々な物をそぎ落としていきます(そろそろお年寄りの仲間入りの年齢になってきたのでちょっと上から目線はご容赦を)。大事なものを育て、守るために行うのはそぎ落とし、でも、本当は必要かもしれないけど苦手だからそれとなく理由を付けて朽ちて落ちるのをそのままにしてきたもものは、そぎ落としたとは言えないかな。できそうなことを選んで都合よく夢にしたてて、ちょっと後ろめたさを感じつつ、「戦略的後退」と実に都合のいい文言で武装?隠ぺい?してしまう。これは・・・もちろん、諸状況いたしかたないこともあります。でも、若いうちからそれを前提に「夢」を風呂敷で包んでしまうのはもったいない。そこへの向かい方、目の向け方、挑み方の源を小学生スポーツでも身に付けてほしいと思います。その柱がぶれてはいけないと考えています。すごーく考えさせてくれるチームこそその実現に一役買っているチームなのではないかと思います。
 実現可能か否かではなく、自分がどうなりたいか、何をしたいか、それを条件設定なくもつものを「夢」と呼ぶんじゃないかなと思います。
No.88で受験シーズンのOGに向けたコラムを挙げていました。その道のほんの歩き初めにおいて、「戦略的後退」は残念過ぎます。だから、「学ぶ」こと、学校や自分磨きの「勉強」「基礎固め」は必要です。
それを実行し続けることを止まないチームの卒業生がたくさん現れてきてくれることが、チームを指導する者の「夢」なのではと思います。では、指導者がすべきことは・・・

No.191 【β-エンドルフィン】 

 

Tyr-Gly-Gly-Phe-Met-Thr-Ser-Glu-Lys-Ser-Gln-Thr-Pro-Leu-Val-Thr-Leu-Phe-Lys-Asn-Ala-Ile-Ile-Lys-Asn-Ala-Tyr-Lys-Lys-Gly-GluOH…構造はこんな感じだそうです。なるほど、なんて頷く方はその筋の方のみ。全然わかりません。体に傷を負ったり、ケガをした時に、初めは激痛、でもちょっとするとケガの状況は変化していないのに、痛みは引いていく。この作用をもたらす(であろう)とされる物質(脳の中の分泌物)だそうです。調べてみると脳や体内の臓器から分泌されるものは代表的な物だけでも100近くありました。よく耳にするのはアドレナリンとかドーパミンとか。
中学部活のワンマンレシーブで徹底的にレシーブを仕込まれました。今では即アウトの世界を当たり前と思い込まされて過ごしていました。そのうち、この痛さは「痛気持ちよい」に変化します。理由は二つ。一つはそんな虎の穴の渦中に自分がいることへのなんだか妙な優越感の芽生え。二つ目は、この脳内神経伝達物質の作用なのではないかととあるTV番組を見ていて頭を過りました(勝手に結び付けた)。いわゆるランナーズハイに代表されるような、脳内の鎮痛剤的な役割のこの物質は、モルヒネの80倍もの効力との説もあるそうです。本当は痛いのに心地よいと。つらいのにもっと続けたいと。
想像を超えるこの手の物質が絶妙なバランスで心と体を保たせていることは人ってすごいなと思いながらも、ちょっとバランスがどこか崩れるのは当たり前、いろんな人がいて当たり前だとも思います。
どうせ出ちゃう物質なら、前向きに使うしかありません。もうちょっとで手が届くところのトライアルは、多少痛かろうが苦しかろうが、達成感とくっつけば痛気持ちよいクセになるんじゃないかなと。あの強打と対峙しよう、高揚感のある辛いラリーに挑もう。β-エンドルフィン=「痛気持ちよい」。痛気持ちよい世界を楽しもう。なんだか厳しい練習を自分に課してみたくならない?

No.192 【一つ上のステージへ】 

 

 三つの柱を考えます。三つの輪がミツワ石鹸のロゴ(TVCMを知っている人は年齢層が・・・)のように重なるイメージにもできますが、小学生だときっちり分けた方が考えやすいので三本柱にしました。
 自分や自分たちのチームを次のステージに引き上げる一つ目の柱「できないこと、苦手なことの底上げ」折角攻撃力があるのに、そこに結び付けるまでの技術がおぼつかないなど。二つ目の柱は「かなりいい感じにできている、得意を伸ばす」サーブがめちゃ得意、でももっとサーブで点をとりたいなど。三つ目は、「新しいことに挑戦」ジャンプトス、オーバーハンドサーブをやってみたいなど。
 自分やチームとしての内容は様々だと思います。設定の時期にも関わります。例えば、大事な試合が控えている直前に三つ目を入れるのは至難。モチベーションUPや長期の見通しを狙うのであれば三つ目は設定すべきです。
 今の自分や自分たちがどの通過点に居て、どこに向かおうとして、そのために最初の一歩、次の一歩、次の機会(試合)での想定、3か月後の想定、最後の目指す時期での想定(目標)を近い時期であれば確かな設定を、遠くになればなるほど夢を描くようにでいいと思います。
 通過点では、きっと大きな挫折や悔しさや時には達成感をもって自身のノートに書き込めます。その印象が大きければ大きいほど強く鮮烈にたくさん丁寧に書き込めます。共有して方向性をもたせれば成果は必ず現れるのが、伸びしろの大きい小学生のたのもしいところです。
 自分で、自分たちでそれができるように長い目で子どもを見るのもまた指導者の心得るべきところ、そして難しいところだと思います。

No.193 【認知行動療法】 

 

 ちょっと頑張れば手が届くポイント→「最近接領域」と名付けてみたり、大声を出すと力が出る→「シャウティング効果」と呼ばれてみたり・・・そんなに難しい理論でもないのにわざわざ小難しい専門用語になっている事態は結構多い気がします。
 どうしてそんな行動になったのか、上手く立ち回れなかったのはどうしてなのか。その場でそのことを手っ取り早く叱り、戒めることが必ずしも正攻法ではないことの方が多いものです。苛立ちをぶつけること、怒りを叩きつけること、嫌みを放つことは簡単です。でも、本当に自分で考えて自分で行動調整をし、成果を感じ取り、分岐点でより正しい選択を試みるように仕向けることは難しいことです。それがより良いことはわかっているにしてもです。
 「振り返り」を基本に考えるとちょっと筋道が立つことがあります。例えば、チームで点を失ったときにボールを蹴ってイエローカードをもらってしまった・・・とします。チームへの悪影響は簡単に想像できます。時間をおいて冷静になった時に考えてみます。苛立った原因、その原因に至った根拠、状況、より細かく丁寧に、ゆっくり一つずつ。そして、そのことに対して、ではどうすると事態をよい方向にもっていくことができたと思うか、その方向がよいと思う根拠は何か。丁寧に細かく、書き出してみること、それを冷静に相談してみること。この繰り返し、積み重ねが窮地から自力で抜け出せる自分を一段ずつ自分で登らせます。時間がかかります。でも、着実にそれが自力に。簡単に言えばこの「丁寧な振り返り」の筋道が「認知行動療法」なのかなと思います。小難しい専門用語・・・。保育園、幼稚園、学校現場は、これをたくさん経験できるところです。なんとなく学年が上がればそれなりに自然に成長していくと思ったら大間違い。バレーチームも野球もサッカーも、その視点は大切にするべきなのではとあらためて肝に銘じます。

​ 日記をつけること、コートから出て頭冷やして来い、これも意味のあることが納得できます。

No.194 【自分たちのバレー 9】 

 

 「一体感」を感じる時、そこにはいくつかの根拠があります。言葉には具体物を限定し、動きや感情を表現し、他者に伝える役割を果たし、時には行動や意識を誘導する内言語であったりもします。ここで「一体感」の根拠を言葉にする、端的な文章で表現するのは非常に難しく長けた文才者でない私にとってはハードルが高くうまく伝えられないと思います。
 「一体感」を果たすには、途方もない時間が必要です。一つの事象から始まり、そのことにその場でどう対峙し、当事者として、近くでかかわる者となったり、遠くでかかわる者となったりしながら時間が進みます。振り返り、反省し、つくろうとし、また崩れ落ち、何をどうしたらいいのかわからない時間をたくさん過ごし、成果が体感できない時間も同様に長く、悩みます。その過程では、自分を信じられなくなったり、他者のせいにしたくなったり、心折れることも何度もあります。
 この時間こそとてつもなく大切だと思います。そう思わせてくれる根拠になる事象を与えられた者、チームこそこの上ないチャンスに恵まれたと感じるべきではないかなというのは負け犬の遠吠えでしょうか?
 チームの牽引者となるべきキャプテンが試合で狙われ、自身のレセプションで大量失点を喫しました。それを心のどこかで「私でなくてよかった」と思ってしまった自分。「代わりに死んでも救ってやる」と全力で行動にできなかった自分、同情が表情になり届かない声援・・・。それを「流れ」というオブラートでつつんでそっと飲みこもうとしてしまう弱さ。(勘違いしてはいけないのは、「弱さ」は叱責し続けても恫喝し続けても克服はできません)。
 深い敗北、点数や紙面上の結果ではなく、自分と自分たちへの敗北が大きければ大きいほど、開けた時の扉の向こうの光はまぶしいもの。これはチャンス以外の何物でもないと思います。ここから創り上げるものこそ自分たちのバレー。もがき苦悩することこそ自分たちのバレー。難しいのは「自分たちで」の経緯。コートの中も外も子どもも大人も。その先にきっとHIGASHIらしい一体感を、気付けば感じているものなのかなと。

No.195 【セミの一生】 

 

 地中で7年間、地上で1週間。海外には17年蝉の別名をもつ約17年間を幼虫の姿で地中を生きる種もあります。「石の上にも三年」はことわざ。我慢して同じ場所でがんばれば必ず花開く、そうそう簡単な机上論ではありません。最近の若い者は・・・本当にそうかな?
 厚生労働省発表の入職率、離職率のデータを見る機会があり、よーくみてみると、定職(パートタイムや定年を除く離職率は20才から24才も25才から29才もさほど変わらない。やり直しがききそうなうちに自分の生きやすく、自分を生かしてくれる場に柔軟に対応する勇気ある決断ができた、とも見ることもできるかも。
このデータの解析の仕方は専門家に任せるとして、この「石の上にも」には続きがあります。本当は「石の上にも三年いればいれば冷たい石も暖まる」です。冷遇や不本意、理不尽に耐えて座り続けろとはどこにも表現されていない気がします。まずはよく知り、考えて、努力を惜しまず三年、そうすれば光が見えてくるという意味なのだと分かります。
そうか、どの石に座るかが、大きな問題であることも忘れてはいけなかった。ちなみに、蝉(セミ)の地上での寿命が1週間という常識、最近は高校生が覆す研究結果が報告されました。アブラゼミ、ツクツクボウシでは1か月近く、クマゼミでは2週間近く。寿命が延びたのかそれとも、常識に懐疑心を持たずに鵜呑みにしてきた大人たち、これは大きな教訓です。

No.196 【ゆるキャラ】 

 

 「くまモン」はちょっと斜に構えた思考をもっていそうな目、「ふなっしー」は喋るしユーモアたっぷりの切り替えしの愉快さ、ゆるキャラは求心力抜群(成功例では)。象徴を掲げ、そのものに大事にしたい思いをもたせ、そこにまた同士が心を寄せる。ゆるキャラはそれを担うことにもって来いの存在。社会や地域や集団を「こんなスローガンで同じ方向を向かせて勢いづかせたい」「禁止事項、避けたい状況を訴えたい」「活性化のために気をひきたい」に一役買っている。
 チームでゆるキャラをつくろう!作る過程に「創る」があり、「みんなで」があり、「意図」があり、「効果的な表現」が必要なことがわかり、達成感があり、チームが一つになれればいい。
・・・我が家には「ぱなっしー」がいます。服ぬぎっぱなし、文具出しっぱなし・・・その後ろから登場するのは「しかルン」。

No.197 【△と□】 

 

 △と□は同じ斜面をコロコロ?カクカクと転がって行きました。ぶつかって、痛くて、どうもこの角が当たるんだろう。お互いに相手の角張ったところが自分の辺に当たってくる。□は頂点の数か違うから同じ車軸で転がるのは無理と思い、△は、□が△になろうとなどとはみじんも考えていないと思い込み、転がる同じ坂の途中で角がぶつかり合う。積み重なるとあちこち傷だらけ。でもだんだん気付いた。相手の角が当たるのが悪いんじゃなくて、自分の角をちょっと丸めてみたら...。転がりながら自然に角が丸みを帯びて、気付いたらおにぎり型になっていた。□は座布団のような柔らかみを帯びていた。多少形は違っても、辺の長さを合わせればいい感じに転がれる。ずいぶん昔に見た絵本、タイトルも内容も実はさだかではない。
 「自分がこう変われたら」「相手の提案にまず乗ってみる心の広さがあったら」「何してみたい?って聞いてしばらく一緒にやってみる思いやりがあったら」「はねのけるとんがりを、提案された側があきらめずに何千回もやってみようとする気持ちの強さに置き換えられたら」△と□はいつしか円になり、凸凹坂の凹凸を柔らかく、口笛を吹くかの如く軽やかに爽快にスピードを上げながら下れるんだろうな。
 コーチが部員に、同じことを何千回もあきらめずに言うのには、こんな思いが深く深くあることを、大きくなったらでいいから考察してみてほしいと思います。

No.198 【挑み方・・・シンプルに考える】 

 

 大切な試合に負けた・・・、スランプに陥った(気がする)・・・、チーム状況が(心と技術)がよくない・・・、練習への目的や意欲がよくわからない・・・。混沌としてもやもやしてそのまま時間が過ぎ、振り向くとそのことを練習してきたかのような時間の使い方にさらに後悔する、そしてバレーが(自分が、チームメイトが)嫌いになる。と大げさかもしれないが、バレーに限らず、何とかしたい試練の場面ではよくある状況、つまりあって当たりまえ、想定の範囲内のこと。
 そこで、細かいことは、それはそれは山ほどある。だから次から次にでてくる。でも考えてみると、次から次に出てくるということは見方を変えれば次のことに移行できていること。まえに進んでいる証拠じゃないか。
 挑み方はシンプルに。「こんなチームになってほしいな」そのために「自分がこんな人になりたいな」をきっちり考えてコートに、体育館に、グランドに。それは発信する側の場合も発信される側の場合も両方準備して。
 人間性の問題かなというところに気付く。じゃあしかたないかな?いやいや逆だ。だからこそそこを練習し挑んで鍛える、その場所がコートでありグランドであったるする。それゆえに意味のあること。

No.199 【家でバレーの話をしない子は・・・】 

 

 主因 → 芳しくない結果に終わるから
ほとんどがこの枠に収まるのではないかと思います。ここでいう「芳(かんば)しくない」とは、三つの意味をもっています(と勝手に考える)。一つは、自分にとっての「不利」。もう一つは「解決に至らない」、もう一つは「課題山積」。
三つ目の「課題山積」の中には「的確に自分の課題が明確になって具体的に考えてみようと前向きになる」山積みと、「やたらダメ出しがぶちまけられただけ」の山積みです。
 スポーツや勉強も同じですが、この前者の心もちで挑むのか、それ以外の心もちで挑むのかはきっと伸び代にも差がでるんだろうな、生き方にも差がでるのかもしれないなと思います。最終的に芳しくない結果ばかりが予想されれば、アーティスティックスイミング(シンクロナイズドスイミング)の井村コーチに叱咤ダメ出しされようとも何とか解決していこうというドリルを長期間繰り返してきた、強い精神力をもったフェアリージャパンの選手でないかぎり、避ける方向に気持ちも体も向いてしまうのは必至でしょう。
 そう考えて家に帰ると、なんだか話すことがなくなってしまう、バレーの何をはなしたらいいのか・・・。コーチの悪口でいいんじゃないかな。その日に話す内容は1つ。明日はこうしてみようと思える工夫を対等に語り合う。答えは出なくても、そうして考える過程、どうしたら答えが見つけられそうかの道筋を探すことこそが大切であることを迷える子猿たちにつたえることが、長い目で見る子育ての一つかなと思います。

No.200 【発想の転換 3】 

 

 夏本番?今年の夏はいつもと様子が違う。7月中旬だというのに最低気温はここ東京でも20度を下回り、最高気温も夏日はほとんどない。5月の気候。それはそれで寂しい。こんな日は生ビールでも、という日はほぼない(私はあまり呑めませんけど)。しかしながら必ずクッソ暑い太陽と40度に迫る激暑はやってくる。
 夏の厚さを表現する時にこんなふうに「暑い暑い」を連呼してもその中に浸かっているいる日常が常時周囲を囲んでいる状況ではたぶん右から左の表現。そこで登場するのが発想の転換。夏の暑さを表現したければ、木陰の涼しさ、氷の冷たさ、袖を抜ける風のありがたさ、ジリジリのアスファルト、開けた瞬間の修行のような車内を引き合いに出す。このひと工夫が夏をさらに暑くする。
 どんよりした体育館の雰囲気を最も強調するには、その逆の状況を引き合いに出す。ここで問題は、その根拠があるか否か。引き合いに出す根拠を経験していなければ右から左。だからこそ最大エネルギーでの爆発的な成功体験は必要(体験内容の大小ではなく)。木陰の涼、練習間のかき氷、全力で向かって攻め切るラリー・・・。

No.201 【プレースタイル】 

 

 「炎のランナー」は1981年のイギリス映画。ストーリーの概要すら覚えていない中、記憶にあるのは二つのシーン。オリンピックに出場する仲間に聖書の一部を手渡すシーンと400m(多分)の第3コーナーを回った辺り(多分)でイレギュラーなランニングフォームに移行し(頭部を後傾)た瞬間に親友のランナーたちが目を合わせて「これはかったな!」という笑みを交わすシーン。
託された者が全力をもって自分の最大の武器で挑むことの価値と気高さに気付いた瞬間と仲間との心の一体感、勝利への高揚感が総毛立つほどに表現されていた。
 「顎を引いて走る」は高速走行のセオリー。このランナーの場合はそうではない走法。でもコーチからはセオリーに沿ったを練習させられていた。自分のスタイルを信じる自分への信頼、それを知る仲間の信頼、プレースタイルはこの信頼を得ていれば自分流も決して悪くない。むしろカッコよすぎる。勘違いしてはいけないのは、わがままな思い込みによる我流ではないこと。
 泣きながらプレーする子もいれば、ちょっとイラついてプレーする子もいる。多少合理的的ではないフォームの子もいる。それがこの信頼感の延長線上に位置してくれば、それも十分価値あるプレースタイルだ。むしろそこがスイッチになることだってある。
第3コーナーからのゴールに至るこの一連のシーン、BGMは意外にもスローテンポ。見る側に鳥肌を立たせるに十分な時間の流れは、スポーツにおけるゾーンを表現するなんとも粋な考えつくされた構成に脱帽。

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