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No.202 【アリウープ】 

 

 遠くからのパスを空中でキャッチし、そのまま305㎝の高さのゴールにダンクで叩き込む技、華やかさこの上ないバスケットボールのシュート方法の一つです。豪快にゴールが揺れるこの技は「アリウープ」、スラムダンクにでてきたこの技を先日テレビで日本人のNBA選手が決めていました。ビデオで録画してスローで再生してみました。バスケのボールをもてからのシュートは、♪♪♪、でもこのアリウープは、空中でボールを受けることから、最大スピードの最大のジャンプで挑むことが可能です。このスロー再生でジャンプの技術をみると、バレーのスパイクへの助走とほとんど同じです。最も効率よく最大のジャンプを得るにはやはりこの方法に至るということかと思います。時には違うスポーツの技術の切り取り~分析もなかなか面白いと思います。ハンドボールのスカイプレー、倒れこみシュートからのスライディング、野球の守備の初動・・・結局のところ、超カッコいいプレーで魅せたいための探求、盛り上がる方向優先でいいと思います。知ること、探ることの楽しみが根拠を積み重ねます。

No.203 【言葉】 

 

 言葉は刃物、後先考えずに下手にちらつかせたら多くの物を失うことにもなる。血が上っても考えねばならない。面白おかしくても考えねばならない。自分も人も、特に大切な人や仲間を思うとき、この刃物はよく考えて使うべき。
 言葉はシチュー、冬の凍てつく帰り道、帰宅後に心底温まる個性がにじみ出る定番のメニュー。熱すぎず、適度に伝わる作り手の情。これもまた言葉のもつ大きなちから。
刃を振り下ろされた身、シチューを差し出された人のいなし方、いただき方もまたそれに相対する作法が必要に思う。刀を刀で切り返すか、鞘に納めさせて分かり合おうとするか。シチューをただラッキー!寒い中来たんだから当然とするか、言葉をそえて融けた気持ちをつたえるか。
最近、中学生に「声を出す」意図を詰め込んだ練習をかなり実施した。なかなかでてこない。「声を出す意味」については複数回コラムで取り上げた記憶がある。言葉には「行動調整」機能があることをそこでも記述したと思う。
万葉集にいくつか「言霊」を使う句がある(うけうり)。そんな昔から…というより昔だからこんなふうに「言葉にした通りに成るように、言葉に宿る神がその霊力を発揮する」みたいなオカルト的になったんだろう。これは、脳内には言葉によって行動を誘導したり、そうする方向性にもっていこうとしたり、脳裏にやきついていてそうなるように結び付けようとする働きがあるから。簡単に言うと、「言葉を発すればそうなっていく」。
だとしたら、言葉を発することは、自身の、他者のポテンシャルを上げる最高の手段としての意味を十分にもつ。前に進む言葉、自分と仲間を励ます言葉、動きを引き出す言葉、気持ちを繋ぐ言葉、たくさん出す方がきっとたくさんの光を呼びこむ。

No.204 【ゴミひろい】 

 

故郷の豊橋市では私が小学生のころ、530運動がスタートしました。小中学校あげてのゴミ拾い運動、地域清掃。キャンペーン的なものは一過性の子とも多い。でも、機会が目の前にあると再びそのことを思い出す。たぶん、私は、他の人よりも少しだけゴミを拾うときの優越感?を感じる人だと思う。(ちゃんと片付けているか否かとは全く別ですけど。)
気付くことから行動に移すこと、行動に移すことからより脳に刻まれる。すると今度は気付きやすくなる。そこに評価が加わればされに密度というか濃度というか刻印の深さは増す。イベントやキャンペーンやスローガンを上げての活動はこうして大切な普遍的な人間性の素地をちょとずつ築いていくんだと思う。・・・にしても、530運動のマスコットゆるキャラ、そうじろう(掃除をイメージして)はもうちょっと意見交換してもよかったのではと・・・

No.205【梅雨】 

 

たぶん、本日より梅雨明けの宣言が出されるのではと期待。
先回530運動を紹介しました。関連性があるかなと取り上げたタイトルです。梅雨とゴミ拾いは直接的には関係ありません。「物事に目を向ける」「注意をはらう」「気づく」という観点からの考察です。
日本には四季があります。って情緒豊かだという印象をもたせるようなフレーズですが、外国にだってありますよ。地球が軸を傾けて公転している以上あるに決まってます。
雨が降る状況を表現する時、日本はどこにでもある四季の断面としての雨のみに関してだけでも400以上あるそうです。英語ではlight rainとかsummer showerとかたいして多くはありません。漢字が多種あるからとも言えます。雨の表現が色々あるとちょっと調べたくなります。カッコいいの見つけました。翠雨(すいう)青葉に降り注ぐ恵みの雨。趣のあるのも見つけました。月時雨(つきしぐれ)月明かりのちらつく時雨。雨を調べることによって雨にまつわる周辺領域を知ることになります。すると今度は雨が降ると、雨に注意を向けるようになります。このスパイラルはスポーツ場面にも存在すると気づきます。
風の表現は150以上、雪の表現は100以上、夏休みの自由研究にいかが?
魚編の漢字は477個(常用外含む)みつけました。本当はいくつあるかよくわからない。

No.206 【200 GO(号)記念】 

 

 掲載から200をこえました。バレーに関することも多いのですが、本筋はそこではありません。見方や考え方、創造、人とのつながりや人としての豊かさ、強さ、やさしさ、それをこれから未来を生きる人たちに感じて、考えてもらえたら、に在ります。
記念とは言え正確に200号なのかは不明です。まだ手元に寝ているコラムもありますし、掲載の通し番号も間違ってますし、テキトーです。
 私がこのチームに来る前の話をします。田舎は渥美半島の付け根。豊橋の市民病院にほぼ毎週片道300km通っていました。友人のお父さんは同じ境遇で400kmの岐阜までそうしていたとおっしゃったのが精神的な追い風になりました。親孝行の一つもできなかった一人息子、せめてこんなことくらいは。ちょうど息子たちのバレー部のコーチや応援がひと段落し、バレー指導とはこの先縁はないものとやり切った感をもって終えていたころ。
 再生不良性貧血(難病)、血液の中の血小板や白血球が徐々になくなっていく母の病、あの手この手を次々に試しますが、高齢でもあることから治癒に至らず、最後の一手、希望はすててはいけませんね、この薬のおかげで、退院し自宅で普段の生活に戻るまでになりました。月日をおいて母が他界し、1か月もしない頃、情報が巡り巡って、今のチームの指導にかかわってくださらないかとのお話をいただきました。基本的に、小学生時代に一つのスポーツのみに傾倒することには反対でした。しかし、当時、面談をしてくださった担当の保護者ご夫婦から訥々(とつとつ)と当時の事情を重い口をひらくように少し声を震わせて話される内容は窮地をかんじられるものでした。東京豪雪の日、喫茶店でのこと。
 かかわるのなら中途半端ではなく、未来を担う子供たちに手抜きはできません。私の職業柄、それはこれまでの生き方を自分で否定してしまうからです。そして、このタイミング、亡き母が、力を貸す時だよと肩を叩いた瞬間でした。
 現在に至るこの数年間、毎年、毎年違うドラマを子どもたちは魅せてくれました。凹みもし、浮かれもし、笑いもし、泣きもし、バラバラにもなり、一つにもなり、そうして危うさをもちつつも中学へと何周りも大きくなって巣立っていきました。振り返る者もいれば前だけ向いていく者もいます。それぞれがそれぞれではありますが、でも、きっと大きな幹はちゃんと育っている、そんなふうに感じます。それは、たくさんたくさん考え続けてきたから。子どもも大人も、私たちコーチ陣も。レガシーがあるとするならば、この幹を太くする全ての考え方やかかわり方や仕業や進み方そのものだと思います。
 200余のコラムには、軽いものもありますが、そこそこ深い意図をもっているものもあって、そこそこ考えているんです。先人の教えに由来するものもあれば、探究心をもって書いたものもあります。中には、出逢った人やチームや状況を起点に書いたものもたくさんあります。この出逢いこそ・・・
 とここまで書いた時、思いもよらぬLINEが届きました。
 同じ方向を向いて、同じ意志をもって、バレーチームの監督をされていた彼。これまでに会ったのはたったの二日間。昨年度の合宿でやはり同じ意志をおもちのチーム監督さんのご紹介で会場につれてきてくださったチーム。この監督さんとの初対面での対戦、でも、対戦というよりバレーの考え方や育て方、生き方について同じ思いをもっている共感に心が躍りました。肩をだきあったその感覚を今も覚えています。
 逝去、あまりにも残念で残念で残念で・・・神様は何を乗り越えさせようとしているのか・・・
 もうすぐ合宿です。葬儀の長は大親友のコーチ、考えただけでもこらえきれない虚無感と悔しさに襲われます。こんなにも出逢いを楽しみにした一年越しの再開直前に。そのコーチから連絡がありました「楽しみにしています。いきますよ!」
そこには亡き監督の意志が滾々と湧き出ているかのよう。シビれました。そうだった、大切にしていくものはこの意志。ならば全力で、迎えうつべし。力が湧いてきました。監督さんがあの時のように肩を叩いてくれている気がします。参加するみんなの肩。
だからこの200号をこえた記念のコラムは、中込JVCの亡き監督に送ります。
そしてHIGASHIのみんなに、「出逢いを生かせ、そのために出逢おう。本質を見極める真(心)の眼、その先につなげる、切り開く勇気と創造力を養い、全力で試そう。そして強く、やさしく。」
さあ、あらためて、出発です!

・・・肩を叩く・・・力が湧き出す合図。

No.207【振り返り】 

 

 大きな大会の後、反省を口にする。文字にもする。話しもする。そして次に向けて何かを掲げる。その時はその気持ちは本物。3日後はどうだろう、2週間後はどうだろう、1か月後は。具体化して細かく分析して、その一つ一つについてどこまでできてその一歩先はどこか、それを克服するための手立てはどういったものかを事細かにここまで考えるか、と思うほどにやれているか。ほとんどの(特に小学生)プレーヤーは忘却曲線に沿ってだんだん薄れていてしまう。
 「考えろ」「もっともっと考えろ」試して試して分析し続け、試行錯誤してちょっとずつその体感を積み重ねること。技術を根石の上に石を重ね、飼石を積み、裏込め石を積む地味な作業が堅牢な城の基礎の石垣を構築する。
 小さな振り返りを「まあいいや」にするものほど進歩は遅く、時には逆行する。振り返りを一生懸命繰り返す者は、必ずどこかのポイントで化ける。
 とはいってもなかなか自分でやり続けることは(特に小学生は・・・再びこのフレーズ)困難。さりげない、本人がやる気になる手出し(多くも少なくもなく、遅くも早すぎることのない)は、絶対に必要。だからこちらも何万回だって振り返って振り返らせてやる。根競べなら負けない。

No.208 【土俵】 

 

 私の最も好きな力士は「千代の富士」。いやいや白鵬の方が、大鵬の方が強いよ、意見はまああるでしょう。千代の富士関は130kgに満たない軽量でありながら、得意技は「ぶん投げる」。警戒しているのに前まわしを取られてしまう。50kgのダンベルを片手で軽々とカールするこの関取、力で崩して土俵を非常にうまく使います。ご本人の話を聞いて、この局面でそこを意識しているのかと鳥肌が立ちます。自分が今土俵のどこにいて、相手のパワーラインがどこを向いていて、動きの中でどうそれを移動させて、俵までの距離を確認して流させて、自分は特俵を使う利点を計算して動き、ほんのわずかな差を有利にして、で、ぶん投げる!そうです。相手は策に流し込まれていると知らずに、あたかも自分が勝機に向かっていると感じた矢先の電光石火。
 策に流し込む。かっこいい。小さいけどスパイカー!目指していいんじゃないかな。

No.209【自己肯定感】 

 

 少しシリアスな話をします。私の知人の仕事の話です。その施設には知的障害や発達障害(人権感覚に配慮が必要ですが、内容を伝えるためにあえて制度的な見地からこの言葉を使います)のため、二次的な問題行動を誤学習で習得しながら、負の経験を多く重ねてきたお子さんたちが在籍しています。負の経験の重積から自尊感情も自己肯定感も失われた状態でそこに来るケースがほとんどであることを聞かされました。キレることや逃避でしか自己表現できない行動を身に付けてきたケースも多く、社会性の欠如、集団への適応、自信を無くしている子、弱いところを突かれることを恐れ回避し、攻撃的になる子も多いことも語られました。
 知人は言います。問題行動への着目を減らし、できたことを即時評価して少しずつ自己評価を高めていく、そんな機会をたくさん準備したい。そして「わかる活動」「できる活動」を徹底して準備することで小さな成功体験を積み重ね、自分の居場所、自己肯定感の小さな階段を上らせたいと。
 小学生バレーであれどこであれ、人が人らしく生き始める大事なところはきっと変わらないのではないかと思います。(中学、高校生以上のバレーなど、自分たちで自分たちのバレーを作るステージでは、基礎の上にさらに別の高次元への意識を醸成する必要があることはまたどこかで。)

No.210 【二者択一】 

 

さて、問題です。
声を出した方と出さない方、どちらがボールがつながるか。
低く構えた方と高い方、どちらが先にボールに手が届くか。
前に重心を移動している方とかかとに載っている方、どちらがフォローに有利か。
コートの中で練習している仲間の後ろで、同じように動いてみる人とそうでない人、どちらがレセプションが上手くなるか。
ちょっと乱れたトスに全力でリカバリして打ち込むのと軽くオーバーで返すのとどちらが高いポテンシャルを身に付けるか。
届かないボールに全力で追うものとそうでないもの、どちらが半年先にそのボールに追いつけるか。
サーブのコースと高さを1球ごとに狙って打つものとそうでないもの、どちらがサーブの決定力が上がるか。
フォームにこだわるスパイカーとや闇雲に叩くアタッカー、どちらが信頼感のある攻撃力を手に入れるか。
1対1の局面でスパイクを怖がるものと勇気をもて前に出るもの、どちらが自分に後悔をしないバレーができるか。
対人練習を試合を想定して行うものとただのUPでやるもの、どちらが上手くなるか。
常に周囲を見て周りを励ますものとそうでないもの、どちらが試合で信頼感のあるプレーヤーになるか。
どんな自分になりたいか、考えるものと考えないもの、どちらが納得のいくバレー人生を送れるか。
君はどちらを選択する?

No.211【不便から】 

 

 海辺の合宿の宿は湿気と塩気がまとわりつく雑魚寝の室内。体育館まではランニングで荷物を持って海岸段丘を上り1km以上。飯は多いが質素?というかなんというか。3食は体育館から1㎞はなれた大衆食堂に行く時もあった。空調も網戸もない校舎に泊まり、洗濯は自分たち。40年以上も前の自身の合宿。当たり前に思っていた。
 最近のアウトドアライフを見ると昔より進化し、工夫が重ねられ、安全で機能的な道具と快適で心地よい生活を体験できるような施設(グランピングというらしいい)が人気。なんだか不自然というかかえって不安な心境になるのはなぜだろう。快適な暮らしに慣れた現代人が、災害時の想定をする時不安でいっぱいになることにちょっと似ている気もする。
 合宿は非日常だし不都合、心配、不便の山。部活も然り。メインの活動を充実させるためにそれ以外はできるだけ安心に、それも間違ってはいない。そのさじ加減が判断の分かれ道。いかに不便、不都合を体験し、チームワークや冷静さを保ち、創造的な工夫(物理的、心理的両方)で不便を楽しさやちからに変換できるかを味わってほしいと思う。
 何がどれだけ不便かを考えることよりも、その不便、不都合、不快をどうしたら糧にできるかを考える創造力をそういう場で得ることの方が、意味がある。案ずるより産むが難あれども実り多し。というのはウォシュレットを愛し、車通勤の筆者が言う言葉ではないか・・・

No.212 【コート劇場】 

 

 元気印と称されるプレーヤーを見聞きすることがあります。随分前、コートの中で必要以上に駆け回り、大声でゲキを飛ばし、笑顔満面でチームを盛り上げ続けているプレーヤーを見たことがあります。飾り気のない、都会から離れたところのチームともう一つは決して強豪ではないチームでした。小学生ではありません。
 以前のコラムでピエロ、二者択一、その他多くの機会にコートの中での振舞いについては記載してきました。演じることは仮面をかぶること、本来の自分ではない姿をつくること、真実ではない、そう思うのであれば、ぜひ考察していただきたいと思います。何のために演じるのか。自分以外の人に伝えたいこと、気持ちや動きや考え方などを最も強く伝える術の結論がこの演じるという方法に至ったからだと思います。どちらが効果的か、恥ずかしさや不安(合っているか間違っているか)を振り払い、自分との闘いに勝ったものがその表現を表に出すことで伝え、変えるものです。
 だから、コートは劇場、最高のステージ、舞台です。その尊厳ある舞台にたつ(たとえ練習の一瞬でも)ことは、演者の強烈な意図がなければならないと私は思います。演じるというと自分を偽るイメージもありますが、違います。ここでいう演じるとは、本来の眠っている自分を引っ張り出して表現する勇気をもつことと考えます。そう考えると、冒頭の「必要以上に」は「必要不可欠」に訂正しなければなりません。いいプレーヤーです。

No.213【OFF 独り言】 

 

 再びバレーがしたいなと思ったのは、就職して10年以上が経った頃か。偶然、職場の仲間に若い血気が流れ、ポンコツを誘ってくれた。40を超えたころ、職業病か椎間板ヘルニアに見舞われキックスタートのオフロードバイクを手放し、バレーもスキーも断念。
 機会はなんとなく巡ってくる。息子たちのバレー人生の始まり、自身の職場のまたまた若い人たちに手を引かれ、というより「魅かれ」かな。白球に別れを告げてのち10年、色付きボールとの出会いが始まる。縁だなあと思いつつ、よくよく考えると筋道のようにも考えられる。長くも短くも、空白の時間は無駄にはならない。むしろ無駄にしないようにそ~っと楽しめばいい。希望を捨てるな、壮年よ。症状はちょっとはよくなる。
 ~SKIいきたいなあ~ツーリングいきたいなあ~海いきたいな~自然はいい。横手山山頂から滑り込む爽快感あふれる景色、八千穂高原の白樺林から蓼科に抜けるルート、阿嘉島のウミガメ・・・あ、そろそろ時間だ、体育館に向けて準備、腰痛ベルトを忘れずに家をでよ。
 Coming out 嫁に内緒でバイクを買いました。スキー板を半額セールだったとウソをつき値段を告げずに買いました。申し訳ありませんでした。

No.214 【錯覚・思い違い】 

 

 Tの字型に長さの同じ線を組合せ、どちらが長いかを尋ねる錯視の引例は目にしたことがあると思います。これを(何十年も前ですが)アフリカの草原で暮らす民族で調査したところ錯視は認められなかったという話を思い出しました。理由は、完璧な直線を見る機会がないからだそうです。現代人の経験による脳の錯なのだそうです。情報が先入観となり、現実を誤認してしまう。
 そうはいっても現代社会、勝手に根拠となる情報は入ってきてしまいます。最近はインターネット、SNS、メディアは猛烈なアピールで迫り来ます。取捨選択なんてとてもとても。だから自由研究でいいと思います。コツはたった一つ。反対意見を探すこと。物事には表裏どころか180度どころか三次元でとらえ方が様々です。また、その表現、伝達方法も直球もあれば変化球もあります。真理と思われたこともちょっと状況が変わったり自分が進化・成長したりすればその真理もちょっとずれてきます。
 ちょっと観点は違います(ここからは「思い違い」に話が移行します。いかんせん、このコラム、気分でつくっていますので。)が、こんな経験があります。乳児を抱いたママが、保健師さんの前でミルクをありえないような姿勢で与え始め、保健師さんに注意されると、ママ曰く「たくましく育ててるんで」。逞しいとガサツや粗暴は違います。
自分の意見をしっかりもっているのと自己中心的や信じ込みすぎるのとは違います。ちょっと見方を変化球にすると、一人で解決するしっかり者なのか、複数で解決するエネルギーや根気や手立ての工夫を避けている者なのかどちらなのかと探りを入れたくなります。
 ややこしくなってきました。そんな時は、一つの問題について、ぜ~んぶ書き出してみましょうか。考え方の整理を投げる人とそうでない人、どちらが一歩先の自分をふみだせるか。

No.215【闘う心】 

 

 車のラジオから聞こえてきた「戦争は味方を殺すことなんです。」体験者が消え入りそうな震える声で絞り出した。深く聞き出さなくてもわかる気がする空気だった。生き抜いた鮮明な記憶のある方々が少なくなる令和の時代への移行。
 試合では、身体コンタクトのあるなしに関わらず闘争心は必要。争わない、争わせない運動会の実施の報告を耳にする。ちょっと違和感を感じる。闘うことに本当に一生懸命に考えてきたことのない人の発想なんじゃないかなと思う。トップアスリートのコメント、著作、言動、取り組み方に答えがある。最後の最後で雌雄を分ける根拠を追究してきた人とそうでない人の差。自分を生かすには、仲間を生かすには、どんな考えをもち、具体的にどうすればよいか、考えて考え合ってきた先に見出せるもの、それこそが信じるに値するもの。そんな人(人たち)が相まみえる場においては、いかに生かすかは最重要ポイントとなる。加納治五郎氏が、闘いは技術を練る場、相手を尊敬す、と武道の精神を継承されている。戦争で、武術が得意なものを前線に、のそこが全く異なる考え方。以前、敵国同士の柔道選手が同じ武道場で稽古をしていることを紹介したニュースがあった。この若者たちがきっと平和の力になる。
 「かおる」曰く、「神谷活心流は活人剣」。るろうに剣心、漫画と言えど侮れず。蛇足だが、この「かおる」、LGBTについて現代で最先端の観点の発言をしているのも求心力がある。
 さて、若人、活人剣を習得できるかな?極意を伝授できるかな?

No.216 【北斎ブルー】 

 

 今なお残る除染作業、東日本大震災の爪痕は想像以上に深かった。仲間のお父さんも、震災後8年以上経ち、赴任先から東京の勤務になりそうだとの連絡に複雑な想いをにじませていた。
 葛飾北斎は言わずと知れた日本を代表する浮世絵師、宝暦十年(お、母校が藩校として生まれたのも宝暦だった)、幼名は川村時太郎。へえ~30回も名前を変えて、93回も転居?破天荒すぎる。数百年も前の絵には印象的な色が塗り込まれている。和紙に刷り込まれたプルシアンブルーの顔料が色落ちしていないことに着目した科学者が、ここから発想を得て、除染スポンジを開発した。温故知新と言おうか発想の転換といおうか創造力の豊かさといおうか。でも、個人的には、きっとこの開発者、もしかしたらユーモアのセンスあふれるひねくれものだったら楽しいな、と考えてしまう。
 これまでの当たり前、常識、表から見てとれるそのものを、違う観点で、自分が探求している内容に結びつけようとして敢えて見る作業はなかなか面白い。
 開発の偉業や列伝にはこんなエピソードが溢れている。きっと、練習方法や考え方にもこの北斎ブルーは色をおとしてくれるんだろう。繊維の中の中にまで。
 ちなみに、ちょっと調べてみただけでも、この色の別名は17もある。
 あ、私たちのチームカラーの一つにも、この色、入ってる・・・ちょっとうれしい。

No.217【Haka】 

 

 「叫びは魂を奮い立たせる」・・・ワールドカップバレーのCMキャッチコピーです。繊細な技術論、緻密な戦略、それも観戦やゲームでの見どころでもあり舞台に立つ側の見せ所でもあります。でも、やっぱり魅かれるのはそのハートです。どれだけの思いを積み重ねているか、出そうとしているか、全身全霊をもって相手に挑み続けること初めて自分の存在の意味をもちます。(40近く年前に絶版になりましたが「オスカーをたのむよ」は、私のいとこが19才で逝去し、その母が執筆。いとこ本人の「人間は完全燃焼できるからこそそこに尊厳がある」、その言葉を思い出しました。)
 ニュージーランドラグビーチーム「ALL BLACKS」の「Haka」はまさに勇壮な魂の雄たけびです。大地を踏み鳴らし、相手をまっすぐ見つめ、天に祈り、全ての力を出しつつくそうとする圧力は相手の心臓を見えない矢で完全に射貫いているかのようです。
 叫んだからなにかがかわるのか?高い技術向上につながるのか?後ろ向きな人ほど、やる自身の無い人ほど、逃げるのが得意な人ほど、否定したくなるものです。ちょいバレのコメントのいくつか(防衛機制、声を出すこと、掛け声、自分たちのバレー・・・)でも願うような気持ちで書き込んできました。大声に乗せて気持ちを発信し続けることが、魂を震わせ、前に、上に、一つに進ませることは間違いありません。たった一人でもやり通す勇気をもつこと、そうできるように練習することが大切な時期があります。その時期はチャンスの時です。
 「Haka」の言葉を聞いていると「カマテ、カマテ・・・」、なんだか「頑張って、頑張って・・・」にも聞こえてきます。

No.218 【子育てで】 

 

 現実的にはパラレルワールドを行き来はできません。デロリアン号(バックツトゥー ザ フューチャー)に乗ることができれば別ですが。同時に選択した二つの生き方や経験を積み重ねることができないから選択には悩むしホッと胸をなでおろすし、後悔もします。
 ここからは、全くの個人的な感想でいいとこどりの見解です。反論も多々ございましょうが。学者でも臨床心理士などの専門家でもないので、根拠に乏しい感覚的な「たぶんよかったんじゃないか?」的な内容と受け流すための材料として挙げてみました。
 すでに自立した子をもつ親として、もしかして、これはよかったんじゃないか特集。
「いいこだね~いいこだね~」といって乳幼児期に必要以上に言ってあげた。呪文のように。洗脳するかのごとく。
「寝る前に絵本を読んであげた」同じ絵本ばかりだったけど。読み手が飽きてくるから表現をアレンジしてどんどんエスカレートしてたような。
「質問には丁寧にこたえようとした」~「なんで夏は暑いの?」「暑いから夏っていうんだよ」とはいわない。
「スーパーやおもちゃ売り場で駄々こねて(泣いたりして)る他人の子を遠目に見て、あれは恐ろしく恥ずかしいと独り言として我が子の前で猛烈にいう。ああはなりたくない、ああなったら人間おしまいだ、大きくなってとんでもない悪い人になるくらいに言う。」~これは本来の健全育成の手法ではないのかもしれませんね。実はこれ、犬のしつけの方法のアレンジ(いいか悪いかはここでは言及しません)。これを記載するのはちょっと罪悪感。
「ブチ切れない」~けどもそれに近いのは、あっちゃったなぁ~の反省もあり。
「昆虫や恐竜の図鑑みたいなのを紙でうつしたり、描いたりを一緒にやった」
「塾にも習い事にも運動のクラブにも入れなかった(小学生)」そのような方針だったわけではなく、たまたま。でも校庭や近所の小川(すごく水量の小さい)や大きな公園で毎日ヘトヘトになっていた。ドジョウとトカゲとバッタつかまえ。
「宿題は親(仕事の持ち帰り)と同じ食卓で一気にやる」気を遣うせいかその間は次第にテレビをみなくなった。
「携帯(スマホ)は高校生になってから持たせた」部活と宿題や学校行事で頻度の多い使用はできなかったみたいです。
「外に(遠くも近くも)暇があれば出かけた」そのおかげなのか、実家を出て行ったせいなのかはわかりませんが、家族ででかけようと言ってくれる。小遣いがほしいのか?
「自分の机を自分で作った。やっすいホームセンターの木で」今ちょっとじゃま。
平行世界に存在することができない以上、岐路での選択は難しいです。失敗や反省はつきものです。同じ疑問や困惑をもつ人同士、話して、しばらくやってみて、こどもが自信や達成感や幸福感をもてたら一緒に味わって讃えて泣いて。ジグザグの縫い目でも遠く離れてみてみたら何かしら模様や方向性のある線になっているものです。かも。

No.219【ブロック】 

 

 流れを切る、相手のスーパーエースの心を折る、有利な気持ちの持ち主を零コンマ1~2秒で真反対にする、それがブロック。この時間の瞬間の力はスパイクよりも短いのでは。徐々にゴールラインに近づくラグビーのトライの期待とは異なるバレーの面白さの一つ。
 右に移動する場合と左に移動する場合、利き手(軸足)のちがいによって得て不得手、つまりは高さにも完成度にも差が現れる。ネットからの立ち位置の距離はシューズ1足ちょい。1歩目のちょい前の地面へのタイミングを合わせる加重(以前ディグや屈伸抜重のコラムでもとりあげたかな)と掛け声からの踏み出し、足先の異動側への方向性と助走。コンパクトな腕の振り、隣との距離とネットからの距離の詰めとジャンプ。腕の形、目線、肩の突き上げと肘の絞り、脚から手先までの緊張、腕の方向性と押し込み、ボールを追う目線とフォロー準備。
 要素はたくさんあるなぁ。この完成度が上がると、6人に限られているコート内の人数でまかなうために、「信じて捨てる」場所が生まれる・・・逆にブロックの間が空くと大きなリスクになる。信じることとリスクに瞬時に対応すること。バレーはそれの連続だ。全ては「ありうること」。あわてる必要はないほどの練習をしよう。

No.220 【つたなさ満載のミーティング】 

 

 企業、公官庁、大人のマジなミーティングは高度な知識や先見の明、情報、効率的な準備や決定に至らしめるマネジメントが要求されます。導きたい方向性もあるし合理的現実的な到達点も思い浮かべながらの進行になります。
 小学生の学級会、運動や芸術的なクラブなどでのミーティングは、二つの設定の観点(目論見)があると思っています。一つは大人のそれに近い、ある程度合理的な結論に向けて到達させるための設定です。こちらは大人が水面下でちょっと準備をしたりさりげなくコントロールしたりします。もう一つは、ミーティングそのものに意味をもたせたい時です。今の問題点を、解決の糸口が見つからない状態から、まずお互いが思うことを全部出して、そこからどうなっていきたいのかを考えて、ここからどうしていこうかを泥臭く構築するための設定です。どちらも大きく考えれば同じなのかもしれませんが、後者は特に大人の介入をなくし、あえて子供たちで(二人の時には当事者で)させることも大切だと考えています。結論に至るまでは時間がかかったり、もどかしかったり、泣いたり、分かり合って笑顔が出たり、もやもやして苦しんだ表情もあるかもしれません。ここで大人はじっと我慢。両者の言い分を聞いて整理して方向性を導いてあげたい気持ちは湧きますが、大変な思いを抜け出せたときほど、その先は、猛然と隣にいる仲間の足音を聞きながら走り出すにふさわしい景色が広がっているものです。特に、自分たちでそうできたときに。
(補足。もちろん、その過程で、専門性の高い人、経験のある人、信頼できる人、客観的に評価できる人などに自分たちで求めたのであればそれはそれで見事な気づきの道筋、手法の一つです。もがけ!若人!)

No.221【最近の若いヤツは】 

 

 この一言、「あきれてものが言えん」「その考え方?」「その行動?」いつの時代もとはいうものの。?いったいいつからなのかな?枕草子には既に記述があるそうな。ネットの時代、調べてみると、5000年前の洞窟の壁画にも古代文字で「最近の若い者たちはなっちゃない」という表現があるとのこと。25年~30年で1世代が変わることを思うと200世代は入れ替わり、都度そう嘆かれてきたことになる。でも、そんなに廃れてはいないし、むしろその逆の文化も息巻いて発展してきている節がある。
 嘆く前に最近の若くないヤツ、本当にそれでいいのか考えるべきなのかもしれない。でも、若者よ、大切なのは、真髄。いつの世も変わらず大切なものは若くも老いても同じ。プライドを捨て耳を傾ける謙虚さから、「なかなかやるじゃないか」に一歩踏み出せる。

No.222 【ヨットが進む原理】 

 

 向かい風が吹いているのにどうやって前に進み、旋回し、ゴールする。不思議でした。先日、ヨット(ディンギーというらしい)をやっている後輩にきいてみました。前からの力を斜めの帆に当てた時に、横に帆が持っていかれます。下が氷なら斜め後ろに滑ってしまいますが、海は海水が抵抗になり、簡単には後ろにはいかず、細い船体が、スキーの板やスケートのブレードの役割をするため、斜め前、舟先の方向に進むのだそうです。
 見逃す事象でも、常識と思い込んでその仕組みや根拠を確認しないでスルーしてしまうよりは、ちょっと斜めに「なんで?本当にそう?」と見てみると、改めて「なるほどね、だからか」に至ることがあります。そこから斜め前に進む楽しさと根拠ある向上心につながることは、見方を味方につけること。向学心につながるのではないかと思います。ダジャレが余計・・・

No.223【勘 2】 

 

 GPSは日本が誇る歴史的発明です。重力による時間の進み方が地上と異なるために、時間の補正を行っているそうです。毎秒、100億分の4.45秒。低い位置にある時計と33cm上にある時計では、時間の進み方が、79年間で900億分の1秒違うことが原子時計で確認されたそうです。科学実験の正確性は「同じ条件下」を設定すること。このレベルになると、同じ状況が起きると人間レベルでは言わざるを得ません。
 ちょいバレのNo.8で「勘とは」を掲載しました。スポーツの世界では、正確に言えば、同じ状況は起きえません。似たような状況は起きます。対応するにあたり、一番高確率であろう手段を時には瞬時に、時には事前策に、それがスポーツの面白みでもあります。パスが正確にできなくてもサッカーを楽しむことは大切、スイングがおぼつかなくてもグリーンであってはならない放物線に狂喜するのも楽しいこと、どこに飛んでくるかわからなくてもコートに入ってつなぐのもバレーの勇ましさです。
 似たようなことが起きることへの準備、こんな感じの状況は前にもあった、今度あったらこう対応してみよう、この状況の次にはこのパターンが来やすい、それを想定しこう対応し始めよう。それの繰り返しが、自然に意識と体をそう仕向けるトレーニングになるんだと思います。結果、「勘」が冴えるプレーヤーに成長していきます。
 すると、」「この状況だったからこう判断したけど違っていた」も当然あります。ここからすべきことは2つ。一つはその根拠を丁寧に考える準備すること。もう一つは、とりあえず「そういうこともあるさ」と基本を信じ次のプレーに臨むこと。特に試合中はこの操舵を同時進行で、その時に応じてバランスとりながら行わなくては、ただの「おろおろして終わる」ことになりかねません。試合中に答えが出せなかったらそれは、この場ではできないことと割り切って「基本」と「仲間」を信じればいいんです。

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