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No.433 【中学校部活動の地域クラブ化について】 

 そもそも、各学校に部活動が存在する国は、極めて少数派です。なんだか嫌な予感がします。全くの私見ですが、第一次世界大戦以降の各国の情勢と関係があるような気がするのは気のせいでしょうか。福祉先進国の北欧はずいぶん前から地域クラブが当たりまえです。他の地域(国)は併用型。

 徐々に移行するその意図は理解できますし、各校で担うのは困難です。最大の観点は「子どもにとってどうあるべきか」です。移行に伴うメリットの一つとして働き方改革はあるにしてもそれは副次的な要素。福祉や学校の在り方を、慣らしてきた素地の違いを改革しきれないまま北欧型のいいとこどり策(インクルージョンなど)に移行するのは困難があるように、このクラブ化についても課題があります。反対ではありません。きっといい方向に向かう策は見いだせるはずです。子どもたちのために。

 日本と欧米と北欧の部活動(クラブ)の目的の違いは(ざっくり)、それぞれ、人間形成、競技力向上、レクリエーション。そこにそれぞれ競技思考が加わっているように感じます。この競技思考が絡むと話がややこしくなるのは想像がつきます。学校内に部活動が存在する意味は、生徒の日常を良く知る指導者が、人間形成を中心に指導することにもあります。

 このことから、中学校の地域クラブ化を考えた時、どの路線を選択するのかは明確にするべきだと思います。クラブによって方向性は違ってもいいと思います。ただし、想定されるのは、競技思考優先のクラブが名乗りを上げ、小学校での競技経験があり有望なメンバーが集まったり、フィルターをかけていなくてもおのずとかかったりする状況です。

 中学生が、初めてその競技にチャレンジしてみたいと思った時、その想いを共有し、伸ばしてくれる場所がなくなってしまうことには賛成できません。本心から初心者大歓迎をうたうクラブが存在してこそ、意味のある政策です。

 残念ながら、この先10年後、報道で取り上げられるのは、強いチーム、競技者を作り上げたクラブ・・・できうれば、「いい取り組みをしているクラブ」が報道の主流を占めてほしいと思います。

 

No.434 【上善如水】 

 このタイトルの記事はずいぶん昔に書いたつもりでいました・・・No.169 「色」にほんの少しだけ触っていますが・・・
 同じ風を受けても、帆の向きによって進路が違います。ヨットなら2本。組合せで風にも逆らえます。大型帆船にでもなればコンピューター制御。いずれにしても蛇行はします。
 老子曰く。水は謙虚。多くの価値観と出逢って柔軟に形を変える。そこから流れて謙虚に低い方へ低い方へ、人が避けて通るところでも臆せずに進む。大海に行きつけば大いなる恵みとしたたかな力強さを蓄える。海はいいよなあ、でっかくってさ・・・と加山雄三さんも歌っています。
 価値観はいくつもあり、正解もまた一つではありません。引き出しを開けまくって、探しまくって、根拠をもとに今、どんな選択、どんな創造をすべきかを考えたいものです。小学生といえども、いいえ、小学生だからこそ、その姿勢を身に付けるべきです。次の1本を、ここから先を、みんなでどう挑むか、どんな意識でどんな練習で・・・
 蛇行しながら帆船を進ませるには、みんなで航路を見つけるに、は勇気をもって帆の方向をそれぞれが示さねばなりません。・・・水の如く。柔軟な発想と受け入れる懐の広さ、かつ続ければ石を穿つ強さをもって。
 父さん、あなたが蛇行しているのは、純米吟醸「上善如水」のせいです。そうではなくて。それもいいんですけど・・・

No.435 【中学校部活動の地域クラブ化について】 

 そもそも、各学校に部活動が存在する国は、極めて少数派です。なんだか嫌な予感がします。全くの私見ですが、第一次世界大戦以降の各国の情勢と関係があるような気がするのは気のせいでしょうか。福祉先進国の北欧はずいぶん前から地域クラブが当たりまえです。他の地域(国)は併用型。

 徐々に移行するその意図は理解できますし、各校で担うのは困難です。最大の観点は「子どもにとってどうあるべきか」です。移行に伴うメリットの一つとして働き方改革はあるにしてもそれは副次的な要素。福祉や学校の在り方を、慣らしてきた素地の違いを改革しきれないまま北欧型のいいとこどり策(インクルージョンなど)に移行するのは困難があるように、このクラブ化についても課題があります。反対ではありません。きっといい方向に向かう策は見いだせるはずです。子どもたちのために。

 日本と欧米と北欧の部活動(クラブ)の目的の違いは(ざっくり)、それぞれ、人間形成、競技力向上、レクリエーション。そこにそれぞれ競技思考が加わっているように感じます。この競技思考が絡むと話がややこしくなるのは想像がつきます。学校内に部活動が存在する意味は、生徒の日常を良く知る指導者が、人間形成を中心に指導することにもあります。

 このことから、中学校の地域クラブ化を考えた時、どの路線を選択するのかは明確にするべきだと思います。クラブによって方向性は違ってもいいと思います。ただし、想定されるのは、競技思考優先のクラブが名乗りを上げ、小学校での競技経験があり有望なメンバーが集まったり、フィルターをかけていなくてもおのずとかかったりする状況です。

 中学生が、初めてその競技にチャレンジしてみたいと思った時、その想いを共有し、伸ばしてくれる場所がなくなってしまうことには賛成できません。本心から初心者大歓迎をうたうクラブが存在してこそ、意味のある政策です。

 残念ながら、この先10年後、報道で取り上げられるのは、強いチーム、競技者を作り上げたクラブ・・・できうれば、「いい取り組みをしているクラブ」が報道の主流を占めてほしいと思います。

 

No.436 【赤すぎない赤 白すぎない白】 

 以前にも「色」をタイトルにしたことがあります。特に日本の色彩表現は非常に豊か。季節感、心のありようを色彩に透過さける独特の文化が平安の昔からそれこそ「色濃く」継承されてきているのでしょうか。
 白黒はっきり!紅白戦!・・・両断するような明確な場面でももちろん色がイメージを後押しします。一方、ふと疑問をもったり、そこに踏み込み切れない感情があったり、巧者になろうと一ひねりを模索したり、特に、言いなりではなく創造を試みるきっかけに気付こうとしたり、そんな時はきっと明確な色ではありません。
 闘魂全開であっても、流れに身を任せると楽な状況であっても、そこにはしたたかな、あるいは爽やかな別の思惑や感情もって身を置きたいものです。そんなときは、きっと真っ赤や真っ白ではないはずです。
 外の景色、友達の顔、自分の心、どんな色にみえるかな? 一歩あゆみでる時には自分で色彩を決めるといい。そんな時、その先、もしかしたら赤を超える赤、白を超える白が存在するかも・・・

No.437 【種】 

 このタイトルの額がいつからか実家にあります。庭の八朔の種、いつ蒔かれたのだろう? 
 クラブチームを見ていると、心惹かれるチームに出逢う時が稀にあります。稀というのも実は寂しい現実なのですが、率直な印象です。憧れの中に悔しさがあるのは、自分の中ではいいことだととらえています。
 この種はどこで植えられたんだろう、どんな環境で育てられたんだろう・・・どれくらい先か、もしかしたらもう既に、なのかはわかりませんが、自身がかかわった持続的なコミュニティから、「その育まれ方を深々と探ってみたくなる人材」が、社会で際立ってほしいと願います。
 ただ強さを求めるチームから育った人材は、どこかで自分を顧みるいい機会に恵まれれば変容があるかもしれません。しかしながら、それは、黒歴史を覆す何かが、その樹木を変化させたこと。蒔かれた種の場所が不運な場所でありませんように。子どもの地域のスポーツコミュニティすべてが、心惹かれる場所でありたいものです。
 この冬は、久しぶりにあの八朔に会いに行こう。皮は手ごわいけど甘いけどすっぱくて、しっかりした大粒の種を宿すあいつに。

No.438 【公平?】 

 ○○ちゃんばっかり□□。。。
 先に手を出したのは△ちゃんのほう。傷つけたうちの子だってもっと心が傷ついてます。
 積み重なると本人不在の怪獣が知らぬ間に忍び育ち、しまいには我が子をも食らう。仕事柄、そんな状況を不憫だなと思いながら数えきれないほど立ち会ってきました。
 一般的に、代表や選出、については、文武限らず、人数に枠のあるものについては、必ずそこに至る過程で、踏む場所や回数や密度に差が出ます。全て同じにすることもできます。最後はくじ引きで決めることもできます。平等です、計算上は。最も大事な根拠を何となくオブラートに包んで逃避の方法として、このくじ引きに参加することをもって平等というのも選択肢としてはあります。
 でも、本当に必要なちから(ひらがなで書く時は心のありようを含めています)をもたせたい時、この選択肢は当てはまりません。ただし、子どもにもその意図が伝わり、最終的に理解することが条件です。そこまで成し遂げられない(考え方や気持ちの根っこを育てられない)のであれば、くじ引きの方がまだましです。
 選出には目的があります。参加者全員がその趣旨を構築し、そこに向かってチャレンジし、その経緯と結果の両方を参加者全員が納得できること。そこまでできれば半分は達成です。残りの半分は、その選出された側が成果を発揮することで達成となります。成果の発揮にはこれまた多くの要素があります。高い点数というだけでないことは言わずもがな。
 小学生の段階では、成し遂げることよりもやり遂げること。それを認め合うことができる集団に育つことが大事なことだと考えます。その地点にいることを実感できる自分づくりにおいては、考える機会、挑む機会において公平というべきなのかなと思っています。表面に現れた形は、小学生の段階では最重要ではありません。
 ただし、そこには子どもとかかわるみんなの真剣な一歩の積み重ねがあってこそ。

No.439 【解明したくなる】 

 鬱蒼とする竹林を行く孤高の剣豪。生暖かい風が忍び寄るようにその男の頬を撫でる。彼は刀の鞘に親指をかけ、振り向きざま、月明かりを背に一瞬の閃きで影を討ち倒した。殺気をとらえた剣豪の勝利である。

 ?殺気? この文章にはいくつもヒントがある。鬱蒼の竹林:竹の葉で音がかき消されやすい。生暖かい風:湿度が高く、臭気を運びやすい。月明かり:夜、襲われやすい。これらのことから、襲い掛かろうとする相手の殺戮者に残る刀や衣類の血の匂いや体臭を含む臭気を無意識のうちに感じ取ったのでしょう。殺気は、こんな仮説が立てられそうです。

 解明、分析、科学の目、過去にもコラムで科学の目を取り上げました。

 そういえば・・・八丈太鼓(144)、上打ちを私がリードしていると思いきや、ぐいぐいと下打ちの彼に引きずり込まれるような、黒潮のうねりに呑まれるような感覚に敗北感を覚えたことを思い出しました。きっと、ほんの100分の1秒単位のリズムのズレであったり、強弱であったり、太鼓の胴から時折見える下打ちの彼の眼光による心理的な威圧感であったり、科学的な根拠は総合的に私を追い詰めたんだと思います。
・・・隣の家の梅の咲き分け・・・どうしてなんだろう? 

 

No.440 【うらやましい一日】 

 「羨」は、「羊」+「よだれ」からなる会意文字で、良いものを見てよだれを長くたらすこと。「羊」は、「よいもの」「うまいもの」を表している(引用)。青梅の隠れ家的名店のハンバーグを前にしたじいさんのそれだ。店名「コンブリオ」。
 「羨(うらや)ましい」妬(ねた)みとは違い、自分もそうありたいと思う気持ちが強いときの表現だそうです。いや、決してハンバーグになりたいと言っているのではありません。
 学園祭の構想が決まり、迫りくる発表の日に備えてクラス全員が分担を必死にこなす。会社の一大プロジェクトに担当チーム全員でとりかかる。選手権を前に選抜メンバーが決死の覚悟で練習にしのぎを削る。退路を断たれ、強い意志と辛い創出(生みの苦しみ)や練習。そこに身を置いた(置かれた)のが運の尽き? 向かうしかありません。
 そんな辛い局面に・・・なんと羨ましいことか! そんな思いや局面に身を置きチャレンジしていられるなんて。きっと大きく成長できるチャンスなんだろう! 羨ましいの一言です。そう考えると、「この場で、私自信がどんな成長をしたいか」を明確にもち、挑めるということは「運の尽き」ではなく、周りが羨む絶好の機会を得たことになります。
 強打顔面レシーブから生まれる確かな成長の兆し・・・メェ~~
捕捉:山羊(やぎ)や羊が紙を食うというのは、紙(和紙)を分解する酵素を持ってはいますが、最近の紙は化学合成物が入っているので、食べさせてはいけません。

No.441 【自分たちのバレー15】 

 おそらく、最初で最後の06型(ブロック0人、守備6人)。少なくとも過去には一度もありません。この陣形で都大会に挑むのは。ファーストタッチを完全守備型で挑むのは、圧倒的に不利です。特に完成されたチームが相手となれば、ボロ雑巾のようにコテンパンに打ちのめされ続けることは目に見えています。低身長を逆手に取った陣形、というより選択肢は、これが今成し得る最大と話し合った結果の披露宴の始まりです。
 リスク満載の06型は、この大会、予選を含め序盤から非常に苦戦します。相手の連打、強打のストレートパンチ、フックに対し、ガードを固めてジャブを討ち続ける小兵のボクサーのよう。じわじわと体力と集中力と気力を削ぎ続けます。先に根負けさせてミスにつなげさせる。その繰り返しは、とてつもない長いラリーを導きます。
攻撃陣は決して強打で抗わず、丁寧にドライブの放物線をエンドライン手前に、ブロックの横に滑り込ませます。攻撃される急、凌ぐ緩。一見、打ちのめされ続けているかに見えるこのラリー。最後に制するのは・・・気持ちで勝った方。長身、攻撃主体のチームより明らかに運動量、つなぐ意識とその表現、次の方向性を想定する先見の思考は勝っていました。
 たぶん、もっと完成度が上がるこの先の大会においては、06型は通用しなくなるでしょう。ただし、存分に闘い切ったと言えれば、ここから先は足し算です。根底にある強みを「あそこから積み上げてきたチームだからこそだよね!」と言わしめる自信のかけらを手に入れたんじゃないかなと思います。最長75秒のラリーに、自分たちのバレーを感じたはずです。

No.442 【自分たちのバレー 16】 

 一通のメールがチームに届きました。「すごくいい試合を魅せていただきました。一球に込める想い、みんなで繋ぐ姿、チームで笑顔! 感動して泣いてしまいました。」
 ベンチの私たちはいつもと変りなく、でもちょっと、いや、最高に高揚し、楽しんだ、これまでの延長線上にあった想いは確かに放出していたと思います。
 6年生の最後の瞬間までを大切にするチームがもつ延長線上には偶発的な結果ではなく、「だからこそ手に入れる」ドラマが存在するものです。必然の軌跡上にある以上、それは伝統と言っていいと思います。
 この大会、関東出場チーム2、都大会8,16入り3チームが参加する最後の大きな大会です。都大会の切符を逃した我がチームが挑みました。
 ここからはblogの引用・・・

 「今日一番、記憶に残っている場面は・・・」キャプテンが声を詰まらせ、上着の襟で瞼を何度もぬぐいながら仲間とサポーターに話しました。「それは、試合終了の瞬間、ベンチのメンバーが泣いているところです。」と。
ベンチのメンバーに駆け寄ると、それが自分がコートに立てなかった悔し涙であることを彼女は知ります。自分がいつもコートに立っている陰で、こんなにも頑張ってきたメンバーの想いの上にいたことを今日は、深く心の幹に刻み込んだ時間でした。悔し涙のメンバー達もまた、袖涙でこう言いました。「残りの時間は少ないけど、チームのために自分ができることを一生懸命チャレンジしたい!」
 メンバーが、人が、ちからを得るとしたら・・・こういう道程なんだろうと思います。お互いが、6年生全員が、考え方のステージがこの1年間で、うねりながらも高い係数の二次曲線で上向いてきたことを肌で感じられた一日!
攻守ともに安定感は未完成ながら、振れ幅の大きさがこのチームの持ち味、魅せつける要素だとも言えます。経験1年半の大砲が推定飛距離20mの大ホームランを打つかと思えば、大舞台を苦手とするサーバーが見事なサーブで攻め切る。メンバーチェンジが信頼感を伝える両者の笑顔で行われる。まゆ毛の下がり具合からは想像できないほど考えて上げるセッターのジャンプトスのチャレンジ。ブロックフォローは渾身。
 最大のピンチはフルセット11-14絶体絶命。ここでチームの「これまで」が炸裂します。根拠と運、手繰り寄せた! サーブは泣き虫度過去最高のキャプテンが攻め切り、レフトエースが4本連続叩き込む。16-14で逆転劇をこんな大舞台でやってのける・・・。関東準優勝チームを突破。
 その後の決勝戦は、激戦の猛攻。これほどまでに高速のトスワーク、堅実な攻守の相手はみたことがありません。対する我がチームは、やってきたことを全部出しきれています。故のボールの緩急が著しい長時間ラリーは、何度も何度も波打ちました。その間に両サイドの全ての試合が終了し、コート撤収も終わり、気が付けば、会場全ての人がメインコートの周りに。間違いなく、釘付けにしていたと思います。0-2の決着。
 勝敗、点差、それは問題ではありません。相手の監督さんが、駆け寄り、会場に叫びました「見たか!これが決勝戦だ!」。
 慰労会? 打ち上げ? の最後にキャプテンがコーチに「質問があります。」と・・・「今日の試合、私たちは、自分たちのバレーができたと思いますか?」と。コーチは大声でこう「できてました!」と。
 自分たちのバレーの今を目の当たりにし、これからの自分たちのバレーが開かれた瞬間に立ち会うこの奇跡・・・ではなく必然の軌跡か・・・

 

No.443 【自分たちのバレー 17】 

 考え方を作り上げることが、如何に遠く、ちょっとずつで、難しいことか。遠くて先のことを考えていたのでは、一歩は勇気や期待をもって踏み出せはしません。そもそも楽しくはありません。力強く、楽しく、だれしも望むことです。でも、現実はかなり大変。

 チームスポーツであろうが、個人であろうが、自分たちが、自分がやろうと決断したことに向かうための大切にすべきことがあります。そのベクトル(エネルギーの大きさと方向をつ量)をどうしたら最大にもつことができるかの考え方をもつことです。

 6年生最後の大きな大会前、一人のコーチから、遠隔地に異動が決まったことを、コーチ陣に告げられました。子どもたちには、動揺回避のため、告げずに向かうことにしました・・・一時は。

 吉と出るか凶と出るか・・・下した判断は、そのコーチ本人にも内緒で、大会に参加する6年生にだけ告げることにしました。理由は二つ。

 一つは、このメンバーたちは、考え方を伝統の上に積み重ねて来れたと感じた、信じることができたこと。「コーチのために頑張るなんて、コーチは違うというだろう(ちょっとうれしいけど)。自分たちのバレーを強く表現し挑むことこそが答。」きっと6年生たちは、そう考え至るだろうと推測できたこと。異動していくコーチの口から「自分たちのバレーができたね!」と言わせようと6年生が話しました。

 もう一つは、数年前、山梨県と長野県チームとの合宿での再会。長野県チームの前監督が若くして亡くなられてから1週間後の合宿。無念を押して参加してくださった中込JVCというチーム。前監督の「HIGASHIとの対戦を心待ちにしていた。自分も子どもたちも。だから、参加してきてほしい。」に押され、全力でチーム一丸で挑みに来てくださったこと。その心のバレーは最高の夏の記憶を彩りました。

 今、HIGASHIの6年生は異動を告げられたことをもっと、さらにエネルギーに変えようとするちからがあります。そう考えての告知でした。

 結果ですか? 

自分たちのバレーをもち、やり通すことの楽しさ、こんなにも肌で感じさせてくれるとは!!

No.444 【一歩出せ!?】 

 No.95 【発想の転換】のコラムで、ASIMOの開発の原点の話をしました。生物や物体が水平移動をする時は、必ず重心の移動を伴います。風や潮流などの外力を利用する場合を除き。
 バレーで言えばディグ、野球ならライナーに飛びつくショート、陸上短距離ならスタート。もちろん、初動の意識や正確な動きは競技ごとに異なります。共通して言えそうなことの一つに、めっちゃ力んでいては初動の遅れにつながるという理論。
 一歩目をできるだけ早くボールをキャッチする方向へ出したい。地面の力、重心を下げる動きから本来の体重以上の力を課せば、その反動はより大きくなり、瞬発力を生みます。一方、それだけでは、力みを生みます。
 こんな動きの原理は同でしょう?ここで登場するのはASIMO。重心をずらしでフラッと倒れこむような動き。ごくごく自然に一歩目が出るはずです。
 この二つの原理を瞬時に同時操作でできること。これにはとてつもない反復練習が必要です。でも、コツがつかめれば、びっくりレシーブやフェイント処理が全然間に合わないというがっかり感を減らせるかもしれません。
 逆に考えれば、その原理の説明をせずに、やみくもに「一歩出せ!」は、説明としては不十分であると思います。

No.445 【不易流行】 

 芭蕉さんが言ったのかな? この四文字の言葉は「基礎をちゃんと学んで、幹となるしっかりしたものを身に付けたうえで、その時に応じた新しい革新的な要素を恐れず取り入れよう!」ということのようです。と、お弟子さんの向井去来さんが。
 1ヵ月前。長男が10年前の大学部活の引退時、後輩からもらったボールに書かれているのを目にしたので、ちょっと調べてみました。10年間ずっと部屋に転がっているボール。
 「不易流行」、なんだかあたり前のことのように思えますが、では、政治では? スポーツの場面では? 地域の中で生活する自分は? 学校での学習面では? もっともっと具体的なところで、算数や数学の問いでは? 英会話では? すべてに共通の概念ですね。
そして、この基礎の幹を作ることこそが非常に大変。どこまでが基礎でどこからが応用? その論議はありますが、まずは、小学校、中学校、そして親元を離れるまでの家庭での生活や学習こそが基礎(と割り切りましょう)。
 バレーボールで言えば、小学生バレーでの考え方や技術です。となれば、とても大事、間違いはきっと許されない・・・ビビります。ならば、それ、子どもたちに責任負わせちゃおうか・・・というわけではありませんが、子どもたち自身が、チームでその基礎の一部でも作れないかな。との発想から、バレーボールの「参考書」を作り始めました。
 乞うご期待!! 未完成からのスタートこそ、スタートにふさわしい。がんばろう! 痩せ蛙諸君。芭蕉さん、見ててくださいね。

No.446 【餞の言葉 gift 2022年度末 卒部生・保護者の皆さんへ】 

 卒部の機会に毎年、その年の「らしさ」に合わせて、はなむけの言葉を添えています。せっかくなので、ちょいバレに。

~ 卒部のみなさんへ ~

1秒で今を変えるちからを得るためにどれほど長い年月がかかったことか。
思い描く自分に近づくために、どれほど大変な思いをしたことか。
手に入れられそうなものを目標にするなどという姑息な引き出しは、最初から持っていないのがこの錬成の場。
手に入った瞬間に次の扉がその先に見える。
そのことにワクワクできる自分がいる? 
そんな自分を作り上げられたと思う?
得たちからは、なんだったんだろう。
それを言葉にするとどんな文章になるんだろう。
誰かに語ろうとすると、どんな表情で、どんな瞳で語るんだろう。
かなり想像ができます。もちろん、とってもいい方向に。
きっと、何年も経たないうちに、ここでの瞬間を思い出せなくなります。
ただし、間違いなく言えることがあります。
みんなは、心の磨き方を、ものごとの考え方を、道の拓き方を、長い時間をかけて自分の幹として育て上げ(始め)たと言えること。
その足跡は、HIGASHismとも言えます。自考自成の一歩ずつの。
未来日記のとおり、卒業生大会が語りましたね。
ピンチからの脱出方法は、もがき苦しむのではなく、考えること、笑顔で挑戦すること、みんなで高め合うこと、響き合うことであることを唯一証明したのはHIGASHIです。
こんなにも、こんなにも、周りを引き付けるバレー、心が震える全員バレーをやってのけた12歳。
自分と闘いながら、大胆で、一生懸命に、みんなで挑み続けることができた。だから感動しました!
コートに立つ者、ベンチから力を与える者、お互いが、その想いを理解し、全員で、心臓が張り裂けるほど必死に表現しました。
終わり方は大切です。その意味は、終わり方は始め方を決定づけるからですよね!
自分達で、この先の生き方の出発点とも言えるここ「HIGASHI」で、スターティングブロックを、しっかり地面に打ち付けられた仲間たちだったなと思います。
簡単には手に入ってはならないちからを手に入れましたね。未来日記を創造するちから、その日記を超えるちから。本当に本当にがんばりとおしました。
たくさんの引き出しと、その中身、たっぷりある。でもまだまだ増やせる。
挑み方は、きっちり伝えたぞ!
待ってました! この壁。待ってました! このトラブル。開けてやろうじゃないか! この扉。
さあ! 行こう! 開幕宣言を声高らかに!

そして・・・
家族に得意の大きな声と身振り? と深く考えぬいた言葉で、文章で伝えてください。感謝を。


~ 保護者の方へ ~

長きにわたり、このイタ気持ちよいHIGASHismに翻弄されてくださり、ありがとうございました。次から次へと・・・
「我が子」を見る目からチームを見る目、数年前の我が子の出発点から今を見て、どんな変化があったでしょうか? その時々の立ち位置や考え方の置き所みたいなものは、パラレルワールドでない限り、正解ばかりを選択することは不可能です。それは、私たちコーチ陣も同じ。全員が、ものすごく迷い、ものすごく考えて、表に出して・・・で、結構失敗する。でも、ここからどうする? をこのチームはどこよりも考えるチームであることは、既に伝統となりました。
6年生が、卒業生大会目白押しの3月、そこには色々な心が渦巻いていました。歓喜も悔しさも。集大成の3月の挑み方は、マラソンのペースメーカーを蹴散らして怒涛の如くスパートをかけた全力のランナーたちのようでした。伝統の心の錬成術の自分たちらしい表現。強風で危険な感じの、でもどこかあったかみと創造力のある挑み方は、他のどのチームが醸しだすものとは違うHIGASHI独特のものでした。だからこそ会場の多くの人たちが、このチームに心を動かされ、応援したくなったんだと思います。さすがですね6年生。卒業生大会の一日一日は、想像以上のONE TEAMでした。
お弁当をつくり、送迎を繰り返し、係の仕事をし、チームや我が子のことで悩み、帰りの車内で泣く子とともに次の一歩について考える。そこから立ち上がっていく背中をそっと押す。本当にお疲れさまでした。
ですが、まだまだ先にはもっと豊かに、もっと揺れて、もっとピンチはどうしてもやってきます。ここまで大人も子どもたち同様、それ以上にやきもきし、深く考えてこられたかもしれません。その分、たぶんですが、保護者の皆さんにも、子どもたちとともに時間をかけて醸成させてきた突破力があると感じます。
親子で青春、苦しんでください。楽しんでください。扉を開けるのがワクワクしてきますね。台風のさ中、単純にみんなで外に出て遊びたくなるような子たちです、ちょっと前までは。今は、堅牢な館をどう造ろうか、この風を生かせないか、とすぐ次に向かう子たちです。保護者のみなさん、置いていかれないように・・・置いて行かれるくらいが丁度いいのかも・・・
では、お元気で! 
              Curry & smoke House SAITOU

 

No.447 【二本の物差し】 

 ちょいバレを積み重ねてくると、そういえば以前、、、と感じたり、デジャブのような感覚に出会ったり、それもそのはず、歳ですから。とは言え、縦糸と横糸、点と点、スパイラル式のバネの下と上、イメージやた例えは色々ですがつながっている状況は多くあります。 No.137 【絶対評価 相対評価】、142、428などは、今回のタイトルの元カレたちです。
 「自分としてはそこそこ行けたと思う」は、他の人からすれば、「それでは不十分」かもしれませんし、その逆の評価も当然あります。目標設定と評価は連動していますし、平均点も存在します。
 集団競技においては、この平均点を上げれば、目標に近づきます。チームで(全員で)挑もう!という中身はこの平均点のことなのかもしれません。ここには克服し続けるに値するチャレンジ内容があります。故に悩みもすれば達成感に歓喜もします。
 その内容の一つは、個人のちからをいかに工場させるか。ここで二つの物差しをもちます。一つは自分の物差し。もう一つはチームとしての物差し。そして、この物差しはいつかは同じメモリの幅になり、1本でいい・・・なんていう考え方には、賛同しかねます。どこまでも二つ持たなくては面白くないですし、切磋琢磨は生まれません。
 自分の物差しで、怪しげな測定をし続けては、道を拓くことはできません。例えば、こんな風に。
 目標をそこそこあっさり達成できるところに設定して、あとで自分の物差しで測ってみたら、目標のラインを超えられた。あるいは、物差しそのものを別のものとすり替えて、達成できたということによって、自分は頑張った、やり切れたと表現する事によって自己防衛をする。でも、実はここで初めはうしろめたさを感じるものです。怖いのは・・・それすらも自然になってしまうこと。
 自分への評価の適正で正直は判断は、いつかどこかで出口が見つかります。必ず。そして、そのための手続きの一つは、チームみんなで、自分や仲間の物差しについて協議すること。チームとしての物差しも同様です。
 二本の物差し、二刀流を極めたいものです。

No.448 【チャーハン&ベチャーフェン】 

 嘘ついた・・・というわけではなく、記憶違いでした。「チャーハン」もちょいバレに載ってますと言いましたが、未掲載でした。改めて3種類創作レシピをご紹介。慌てて載せます。
1.雑炊系チャーハン
(1)「雑炊のもと」(お茶漬けのもとでもいいけど、どうやら雑炊のもとのほうが旨い感じがする。)を買ってくる。
(2)卵と炒める。油は、食べるラー油(辛そうで辛くない少し辛いラー油みたいな)だとちょっとピリッとして大人向き。
2.シーズニング系チャーハン
(1)「ペペロンチーノ」の素や「シーズニング」のアヒージョ(SBの100円ちょい)を買ってくる。
(2)卵と炒める。油はオリーブオイル。前日のアヒージョの残りやオリーブオイルだけ保存しておいて使うとうま味は倍増・・・な気がする。
※ 具? お好みでどうぞ。
3.ベチャーフェン・・・べちゃっとしているので、好みがわかれるチャーハン
(1)刻みネギ、納豆、とろけるチーズ、イワシの缶詰を買ってくる。缶詰は、醤油でも味噌でもなくただの「味付け」をいつも使いますが、好みです。鯖缶はちょっとクセが・・・。
(2)ごま油で炒める。当然べちゃべちゃになる。
(3)刻みネギ(冷凍がラク)
時々このような、バレーとほぼ無関係の記事があります。色々な記事を味わっていただければ幸いです。

No.449 【課題シート6】 

 ということは、過去に1~5まであったということ。後日、掲載したか否か確認します。しません。

 今回紹介する6に限らず、使用する人が、目的に応じて自分に合った形を模索して、たどり着いた形が一番いいんだと思います。

​ 6については、よく聞かれるPDCA(ちょいバレ38)のサイクルを「振り返り」からスタートさせて、少し足りかかりやすい枠の構成にアレンジしてみたものです。簡単に言えば、課題 → なぜそうなったのかの根拠の探求 → 策、です。

​ 低学年用にルビをつけるくらいの親切心をもちろん私はもっています。が、わからないことをわかるようになるための方法も自分で考えて身に着けてほしいとの思いから、あえて、6年生用のみ作成しました。よかった、かっこいい言い訳が見つかった。

No.450 【勉強嫌い】 

時には7時間目の授業・・・小学生が? 土曜授業? 年間1015時間(小4~)。1週間で計算すると年間35週が基準なので、29時間(1時間45分授業)。高3は50分授業とはいえ、30時間です。ここに至るまでの経緯はさておき、この数字、およそ子どもがエネルギッシュに自己研鑽に向かう意欲につながるとは思えません。一方で基礎基本の学力、基本の上にもっと積み重ねたい人が学ぶ意欲にこたえる教育課程の編成にこたえるべき学校教育への期待。両立は難題。日本では100年以上も、寺子屋や藩校時代を含めたら18世紀半ばころからこの模索は続いているのではないでしょうか。僧侶の寺修行を含めたら平安時代・・・。

先日、子どもたちに聞いてみました。「勉強きらいな人?」大勢が手を挙げました。その内訳は、一部の教科が苦手、全部きらい、一日ずっと授業が大変。

逃れられないこの現実。違和感があるとしても、逃げ続けるわけにはいきません。

「苦手な科目がきらいなのか」「目標に向かって努力し続けることがきらいなのか」きれいに二分割できない内容ではありますが、考え方で解決の糸口が見つけられるかもしれません。

「嫌いな科目・・・」なぜ苦手なのか、なぜそのことを考える必要があるのかがわかっているか、なぜその問題はその回答につながるのかを考えたくなっているか。

「目標に向かって・・・」は、かなり重症です。でも、その症状に至る前に軽症段階があったはずです。「なぜ?」に丁寧に向かい合ってきた経験の不足に他ならないと思います。この「なぜ?」に丁寧に向かい合う機会を与えてくれる場が、学校であり、地域のクラブチームであるべきだと思います。幸い、地域のクラブチームでは、学校よりも、焦点化し、自由に運営していける可能性があります。

学校の先生たちは大変だと言わざるを得ない現状を私も理解しています。様々な制約や規則や、何と言っても学習指導要領の縛りは、先生方の熱意ではいかんともしがたい内容が多いのが現状です。それゆえ、この「なぜ?」を丁寧に紐解き答えを見つけに行く作業を、地域のクラブチームでは、責任をもって、担う理念をもつべきだと考えます。子どもたちが、勉強嫌いにならないように、探求好きになるように!

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