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No.526【キャプテンマーク】

 「キャプテン」の単語はちょいバレで40回近く使われました。それらの記事を改めて読み直すと、このたった布一枚のアンダーライン(キャプテンマーク)。。。このラインがみんなを支えるボートや建造物の基礎のようにも見えれば、重り(文鎮)のようにも見えます。
 心許ない人、想像が至らない人、不安をそのラインの上に乗せてスタートを切ることがほとんどでしょう。そうでなければいけないとも思います。言わずもがな、慢心のリーダーはコミュニティーを破壊してしまいます。
 アンダーラインをつけたら深く考えなくてはなりません。なぜ自分なのか。なぜみんなは自分を推したのか。監督や顧問はなぜ自分を。自分はなぜ承諾(立候補)したのか。どんなチームを目指すのか。それは、自分が?チームとして? 目指す目的へのロードマップは? 挑む姿勢は?
 「不安だけどだれかがやらなきゃならなかったから引き受けた」なんて逃げ口上をポッケのどこかにしのばせているようでは、チームとしての思考と自分自身が至っていないと言わざるを得ません。
 覚悟が必要です。妥協しない目的をもつ覚悟、逃げ出さない覚悟、仲が悪くなることを避けるために判断を妥協してしまわない覚悟、常に自分と向き合う覚悟。本当の楽しさは、自分たちのバレーを本気で追求した先にあるんじゃないかな。一生懸命、ぶつかったり理解しあったり、思いっきりそれができるのが青春。言っておきますが、自分たちのバレーの前に「自分のバレー」がなければ話になりません。真っ先にそれを考えるのも、アンダーラインの責任。でなければ、一緒に練習してくれる仲間に残念な時間を過ごさせてしますことになりかねません。
 羽のような布一枚のアンダーライン、重さは1トン。

No.527【人と比べない4つの状況】 

 昨今(もうずいぶん前からですが)、運動会で順位を決めることをやめました。自分の設定した到達点に一番近い人が優勝形式のコンペ。等々自分なりの評価で肯定感をもち納得することで傷つかず、傷つけず、全てが柔和に効果的におさまりをつけた、みたいな風潮が漂っています。時と場合によってはそれは奏功します。でも見誤ってはいけません。
 「人と比べない状況」を4つ紹介します(当然、他にもあります)。
(1)今自分がいる位置を肯定したい。
 比べちゃうと、自分のいる位置が後ろだったり低かったりすることに気付くことを避けたい場合です。明らかに手が届きそうな安パイな目標を掲げてやり遂げて、後ろめたさの残る満足感を得る場合もこれに当たります。
(2)チャレンジの初期段階である場合。
 比べようのない差がある場合は、ライバルとして比べるのではなく、参考にすべき対象であることから、差に落ち込む必要がないからです。
(3)自分にしか成し得ない個性を生かす場面に挑んでいること。
 未開拓の領域、
(4)明らかにチャレンジできる環境にないこと。
 災害などの場合です。ただし、創意工夫やアプローチについて前向きであるならば、その主体性に自信をもつべきです。
 勇気をもって比べて見ましょう。自分を見る目が確かになります。どう考えたら前に進めるかを考えるようになりますし、そうすべきであることを知るようになります。逃げるよりグレートです。

No.528【応援の美学】

  個人的には、極めて個人的な理念です。ここから記載する内容は、反対意見も多いと思います。また、うんうんその通りと言いつつもビジョンは違っていたりする方がおられることも想定されます。それは試合会場で目の当たりにします。
 一糸乱れぬ完成された応援。応援歌、リズム、打楽、メガホンを使った大人が主体の大声援。会場を圧倒します。私は違和感を覚えます。仮に、それを子どもがリードし、マネージメントし、コントロールして行っているのであれば全く話は別です。
 試合をするのは子どもたちです。試合に至るまでの懸命な積み重ね。もちろん、保護者や支援者は多大な貢献をしてきましたし、かかわってきてくださったことは事実です。でも、小学生の子どもたちは、ほんの些細なことに泣き、ちょっとしたことで達成感を得、とてつもなくフラフラしながら小さな手漕ぎの船を手に豆をつくりながら立派にその場にこぎつけたチームです。それは、たとえ対戦相手であっても尊敬に値するし、子ども相手であっても大人にはできないような道を歩んできた子たちも多いはずです。
 それを、大人の応援の威圧感で突き倒さんばかりの応援には、私は賛成できません。きっと、自分たちのチームには背中を押す追い風なのでしょうが、いつしか忘れてしまっている、馴化してしまっている大切なものがあるように思えてなりません。
 子どもたちが、ともに歩んできたチームメイトや先輩を思い浮かべながら考えた応援方法と内容、それを子どもたちが発現する。そこに感化された応援者たちが背中を押すのが本筋、特に小学生スポーツにおいては。と私見です。もちろん、その道程を紡いできたチームであれば、おのずと対戦チームへの敬意を応援の美学によって伝えることができるはずです。

No.529【悪あがきのススメ】 

​ 夏休みの宿題、遊びすぎて最後の数日でひっしこいてやる。気が付けばもう〆切のレポートのやっつけ仕事。一夜漬けの試験勉強。これらには共通の、私は認めない類の「悪あがき」に該当する要素があります。あります? 「無い」ものがある? 何を言ってるんだ?
試合の3.4日前にこんなことをいいました。「試合前まで悪あがきをしよう! 最後の一瞬まで。」もちろん、試合終了の吹笛まですべきですが、ここでは、試合までに限定して話します。
 小学生相手にこの言葉は、どうとらえられるか、あえて具体的なことは告げずに当日を迎えました。正解に近い教示は自分たちの創造力や主体性やアクティブラーニングにはつながらないからです。その先にはあるのは、やらされるバレー。もっと先にはセルフマネージメントやプロジェクトマネージメントのできない中学生高校生・・・かもしれません。大人になってからでいいじゃないか、それも一つの考え方です。
試合当日までの数日間、おおまかな対戦相手の状況はつかんでいましたが、この悪あがきを徹底してやり切ってきたメンバーは0。例えば、過去動画を掘り出して、分析結果を共有し、策を共有し、会場までの往路でしつこく確認し挑む。言い方を変えれば、歩みを止めないチャレンジの実行です。もちろん辞書の表記とは異なります。
 この試合の直後、メンバーの一人から次の大会の対戦相手の分析と攻略の提案の発信。不撓不屈の精神はこうして築かれる。紙面にはその意志が滲み出ていました。冒頭の「無い」ものとは、「積み重ねのプロセス」です。それなくしては、ただの悪あがきそのもの。辞書通りの虚しい結果は見えています。

No.530【間隔反復練習】

  忘却曲線、きっと何とかっていう学者が提唱した時間とともに加速的に忘れていくという当たり前みたいなこと。それを時間軸とともに検証したものです。 
 さて、チームでの集合練習では時間があれば個人技のスキルアップに時間を割けます。共通課題のあぶり出しや解決にはもちろん必要です。でも、折角なら複数でなければできない練習に比重を置きたくなります。そのため、練習会場以外での個人のドリル練習がチームの1点獲得のパーセンテージをほんの少し上げることにつながります。
 間隔反復練習は、忘れる前に繰り返し行うことで、意識、イメージ、体現すべてがつながってきてオートマチックになります。再現性を保つ時間(期間)は少しずつ伸びます。脳神経に定着されるからです。ただし、ずーっと同じではありません。他の刺激による少しの狂い、筋肉量や身体の変化で微妙に再現性が落ちますし、上書き作業が必要になります。だからこそ、反復練習はとても大事です。さらに、その上でスキルアップが求められます。多様な場面を想定しての再現性、スピード、コントロール力。何のための反復練習か、意味を知ることで大切さがわかります。これは、学習面でも同じです。故に、その努力をしているかいないかは、成果に現れることになります。
 ちなみに、アンダーハンド、オーバーハンド、その他の基礎練習を夏休み中に80万回近く実施した小学生がいます。これをどうとらえるか。実施した本人が最も吠える権利があることだけは確かです。

No.531【最近の中学部活事情】 

 土日の練習は月に1回、半日のみ。室内体育系部活は一つのみというかつては聞いたことの兄状況の報告も受けています。少子化と働き方改革、指導者の減少はこの先も加速します。それは枠組みの根拠。子どもたちはどう考えているのでしょう? 笹川財団などを始め各所調査結果が報告されていますが、土日は0,あるいは1日に減らしたいという要望が一定割合あります。また、急に枠を設定されたことで、子どもの選択、保護者の理解は、混乱しているケースが多くあります。その是非を論じる前に、日本の部活文化?(造語)は同なのでしょう。
A競技志向、Bレクレーション志向、C生活指導志向、日本の公教育における部活はABCの全てを学校で教員が担ってきました。上記の3観点は、学校や部活によって比重は違います。諸外国では、AかBのいずれかに傾倒した地域クラブチームが地域内に複数あることが多く、これは長い歴史がその背景にあります。日本は、整理をするには、苦肉の工夫を行うか、地域の総合型スポーツクラブにお任せするパターンになります。
 例えば、バレーでBを選択したい子が選べる術は? Aを選びたいけど中学から始めるにあたり、ノンハードルでAを選択できる地域クラブチームは? 非常に数が少ないと言えます。「学校部活のメリット」は、「これから始める」→「やる気をひきだし」→「競技の醍醐味を分かち合い」→「生きるちから、社会を回すちから」を積み上げていく最も効果の高い場所の一つです。
最近、アンケートが来ました。「あなたのチームで中学生が一会員として参加可能かどうか?」です。先ずは、行き先の選択肢の助教把握と拡大。この部活動改革の広報を拝見すると、「一覧を作成し提示するので、各自で探して参加してくださいね。」。上記の「学校部活のメリット」を生かせる仕組みを達成できる地域団体に行きつければよいけれど。
 もちろん自治体もものすごく頭をひねってくださっています。実際にミーティングをさせていただいた立場から、それは痛感しました。資金を投入すればある程度解決できる部分はあります。指導者の育成(ハラスメント対策はなかなか厄介ですが、進めるにあたっては「絶対に」を保証することは難しいでしょう。)と配置。きるだけ通える範囲の指定校での部活会場。教員以外の指導者が中心ですから団体の理念や規定は必要(フォーマットは自治体が作成)。大学生の活用はよほどしっかりした学生でなければ任せることは難しいのは現状でしょうが、科目としての単位認定に設定するなど、責任と学識やスキルを獲得する方法などは提案したい内容です。
 勘違いしないでいただきたいのは、子どもの自由な希望に沿った自由な選択を優先する事とは違うということです。中学生なのですから、その選択の意味、チャレンジする意味、どう過ごしていこうと思うかは、他人任せではなく、自己決定を試みる必要があります。

No.532【流体バレー】

 20年近く前になります。「理想のバレースタイル」について保護者の方から聞かれたことがあります。つけるとしたら「流体バレー」ですかねぇ。と話した記憶があります。春高では、その年の快進撃ぶりからお祭りバレー、サーカスバレーなど様々なネーミングで注目を集めます。流体バレーは、3D+奇想天外な発想+相手に応じて柔軟に変化させる策による完成度の高さを意図しています。当時、ブラジルがパイプ攻撃を発進させて一世風靡。発想はいくらでも広がります。「奇想天外な」に関しては、チーム内で攻撃パターンコンペなども楽しいかもしれません。相手に応じた柔軟な策の変化は、ハマった時にはゲームの支配感、特別な居心地になるものです。
 守備ですか? 守備はなかなかこの手の案が浮かびません。瞬時にシューズを脱いで手の先に持ってブロックの高さを稼ぐ。味方の方を向いてブロック体制をし、相手に味方かも? と錯覚させる。これが、チームの小学生にもスルーされる理由です・・・。
 先ずは基礎的なことから・・・もちろんですが、面白くなくっちゃモチベーションは上がりません。

No.533【自分たちのバレー20】 

 今まで一度も勝てなかった相手との2連戦。長身の大黒柱要するそのチームは、しかも2枚ブロック。その完成度に苦戦から始まる。ただし、この日は、出だしが悪いという表現は似合わない気がしました。その理由はこの後明らかになります。

 序盤のラリーの中での彼女たちの試行。この後、戦況が大きく変わります。途中のテクニカルタイムアウト時、キャプテンに小声で尋ねました。「もしかしてセンター線ねらってる?」。笑顔で「ハイ、途中で相談して決めました。」コートの中で一つ一つについて意味のあるコミュニケーションがきっと行われ続けていたのでしょう。どういう攻め方、守り方が効果率が高いか。相手の様子を冷静に分析して、体幹しているメンバーたち自身が打開策を捻出したんだと思います。

 もちろん、試合巧者の相手の監督さんです。その策に対する変容を指示する可能性は十二分に想定されました。コートチェンジの3分間。コートサイドで修正点、想定内用、対応策、冷静さと意志の渦の中に指導者が入ることは邪魔な空気。多少渦の色がおかしくてもいいんじゃないかな。

 この日、コート内の選手がベンチのコーチ陣を見ることはありませんでした。タイムアウト時、あえて呼ばなければ、勝手に自分たちでさっさと陣を張り相談を開始する。嫌われているのかなぁ~。そこまでではないとは思いますが、自分たちで突破口を拓く意志の前には、監督の叱咤激励に付き合っている暇はない。それでよろしい。

 このスタイルはきっとこのチーム独特。伝統になってきました。一朝一夕にはそうならないもの。だからこそこの日の2連戦の勝利には意味があります。

No.534【背中を押される時】

 ドレスコードは? 会合や会食では基本的な礼節の一つです。そこに出席するのに服装で判断するのは是か非か。それは賛否両論。どちらかにバイアスがかかり自分寄りに意見を飲めるのでしょう。ここではそれが問題ではなく、その場に立ち入るには身にまとうべきもの、要素や根拠がある場合があるということです。

 遺産分与に突如現れる会ったことの無い遠い親戚。一度も準備の手伝いに来なかったのに、学園祭の屋台で売り子をやりたいと名乗りでる目立ちたがり屋。常識では考えられない才能の持ち主とも言えます。

 言動には責任が伴うことは多々ありますが、発現する資格、積み重ねてきた経験や経過がもつ根拠は当然必要です。

 職業柄、障害のあるお子さんを育てて来られた保護者の方々と間近に接してきました。あるフォーラムで、オブザーバーの公官庁職員からの「私ならこうします。皆さんも試してみたらいかがでしょう。」の軽薄な発言に会場内がざわついたことを思い出します。そう、軽くて薄い。

 コートにいてほしいのは、軽薄な人ではないはずです。大きな大きな荷物をしっかり背負っている人。目に見える人影6つではなく、デカさを競うかの如くの6つの大荷物です。そのデカさゆえ、背中を押そうと思えるものです。

No.535【ジグソー法】 

 例えば、「A、B、C」→攻撃分析班、「D、E、F」→守備分析班、「G、H、I」→データ分析班とします。それぞれの班が分析を行い、次に「A、D、G」「B、E、H」「C、F、I」グループに再編成し、対戦相手に対する策を練る。
 学校現場では、現在の教育課程(文部科学省新学習指導要領)編成上の大きな柱として掲げている「アクティブラーニング」という考え方があります。教師が一方的に教えるのではなく、主体的、対話的、深い学びを実践し、子どもたちに考える力、探求して解決策を導く力を育てようというものです。専門性をもつそれぞれの班のメンバーが策をコーディネート、マネージメントするために各種専門性の高いメンバーで再編成し、複数のチームで多様な到達点を見出す。従来の知識偏重型から未来志向に向かっているとも言えます。
ミーティングの機会には主体的に考える手法として、このジグソー法は一つの選択肢になりえます。

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